SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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完璧さという偏り

完璧な調和を求めると、かえって破滅的な破壊の要因となる。
 
これは、私の経験から言える。祖母は、その臆病な性格から完璧な調和を求めた。いわゆる事なかれ主義と言う奴だ。事なかれ主義と言うのは、完璧な調和を求める変質者の事である。人が2人以上生きている限り、完璧な調和などあり得ない。つまり、現実を無視している。
 
まず、人間が2人以上いる世界では、差違が生じて当たり前で、そこで何らかの衝突が起こったり、不協和音が起こるのは当たり前である。そこに完璧な調和を求めると、ひとは嘘をつかなくてはならなくなる。なぜなら、現実にはその様な調和などあり得ないからだ。どこかで無理が生じる。ある意味完璧を求めると言うのは、ある一つの価値観に偏った意識と定義し治してもいい。この変質的な異常な発想こそ、破滅をもたらす発想なのだ。
 
どのように破滅が生じるのかと言うと、まず、衝突が起こる事そのものを祖母は否定したが、これによって、個々の人間の主張を切り捨てると言う暴挙に出た。つまり、個人の否定である。彼女は二言目に「家の為」と言った。いわゆる全体主義である。家と言う全体の為に個々の主張を切り捨てて良いと言う意見だ。人間が他人を無視する理由に全体の利益の為に個を切り捨てると言う論理を用いると、言論弾圧になる。正義も全体主義的な発想になりやすいので危険である。一度、正義と全体主義が融合すると、歯止めが効かなくなる。もっと言えば、全体主義が正義の仮面をかぶっていると言う状況は、個人の尊厳を都合よく切り捨てる理由になる。よって、全体主義的発想と正義の混同は危険である。正義の為に全体主義的行為を正当化して良いと言う発想も甚だ危険であるから、それらは区別しなければいけない。奇麗事という実態を伴わない正義がこれに該当する。
 
臆病者は完璧を求める。なぜなら、不完全なものを許容するのには勇気がいるからである。勇気のない彼等は、勇気の必要のない完璧な存在を求める。例えば、争いを許容する勇気がないから、争いが全くない世界を求める。その為には、周囲の一切の現実を無視すると言う暴挙を正義の名の元に実践すると言う偽善を行う。これが全体主義のルーツである。つまり、自分のやっている事は正義なのだから、わたしと争ってはならないと言っているわけだ。率直に言って「ふざけるな」のひと言である。
 
人は違ってて当たり前、それを認める勇気がないのならば、その勇気の必要のない空想の中のメルヘンの世界に住んでいればいい、自分一人だけで、他人をもっともらしい理由で巻き添えにするなと言いたい。自分の臆病な発想に全体を適合させようとするな。社会はお前を中心に回っているのではない。自惚れるなと言いたい。
 
本当の調和は、勇気と自己責任の世界である。臆病と無責任とは違う。
 
勇気は多様性を許容し、自己責任は一方的な正義を必要としない。
臆病は単一性を強要し、無責任は一方的な正義を賞賛する。
 
自分を一方的に正しいものとして定義すれば、正しい事をやっているのだから、何をしても良いと言う論理になる。つまり、非常に無責任な論理を正当化してしまうのだ。自分が正義だから、悪は否定していいと言う事になる。つまり、他人を悪と決めつけて、弾圧してよいと考えている。非常に危険な思想である。変質者と言っても良い。