SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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日本で良いリーダーを擁立するにはどうすればいいか?

日本にはリーダーになる人材がいないのではない、それだけの人材の意見を尊重し、もり立てるだけの優れたジャーナリズムがないのだ。この国のジャーナリズムの情けなさは、戦争中に率先して国の片棒を担いで国民に嘘の報道するなど、この国には、気骨のあるジャーナリズムがなかった。そのことが民意の歪みを生じさせ、優れた人材の正しい意見が報道されず、どうでもいい人間の主張ばかりが報道されていくという状況が続いている。
 
1.記者クラブ制度解体

  • 記者クラブ制度という特権階級を解体し、報道に自由競争の論理を持ち込み、切磋琢磨させる事が日本に優れた指導者を生む為の試金石となると思う。優れたジャーナリズムの存在こそ、優れた民意を生む。「日本人がバカなんじゃない日本のジャーナリストがバカなんだ」アホでトンマなジャーナリストが生まれるのは、特権で守られているからだ。そんなものは撤廃して、ガンガン競争してもらおう。記者クラブを媒介して、官僚と記者は癒着している。この癒着構造を解体する意味でも記者クラブ制度は解体した方が良い。先進国でこんな変な制度があるのは日本だけだ。

 
2.クロスオーナーシップ規制撤廃

  • 殆どの先進国でテレビ局と新聞社が同じ資本系列である事は規制されている。それは新聞やテレビが結託すれば、結果として世論操作が出来てしまうからである。実際、鳩山総理は、新聞とテレビの猛攻にあって退陣させられた。このような世論操作が私企業に出来てしまうのはよくない。新聞とテレビによる世論操作が出来なくなるように、テレビと新聞の資本関係を分離するべきである。

 
3.癒着構造を破壊すれば、自浄作用が生まれる

  • 上記の規制を撤廃し、記者と官僚の癒着を分離、テレビと新聞の癒着構造を分離し、それぞれに自由に競争をしてもらう。テレビが新聞の記事を批判したり、新聞がテレビを批判する事が出来るように、それぞれを分離する。マスメディアや官僚が癒着して一体構造である事が、相互の批判状態を生まず、自浄作用がなかった。マスメディア同士、官僚とマスメディア、双方の関係を分離して関係なくしてしまえば、自由に報道できる。何でも自由にハッキリ言える。そういう風通しの良い状況が出来る。

 

  • このようにして、報道機関と言う社会を評価する目をキレイにする。癒着して腐った目はいらない。規制を撤廃すればルールが変わる。いい記事を書く事が高い評価に結びつく、官僚や他のマスメディアにいい顔をして情報を貰うのが優れた記者だった時代は終わる。そういうクズをゴミ捨て場に送り、ちゃんと報道したい人に自由に記事やレポートを書いてもらう風通しの良い自由な報道環境を作る。

 

  • 有能な奴を引っ張り出したかったら、公平である事が一番。優れた人間ほどそういう場所を欲しているはずだ。

 

  • 人が絶望するのは、公平でない評価者がいる事である。やればやっただけ評価されれば頑張るが、そこに不平等や不公平がある時、人はやる気を失う。記者クラブという特権は不公平であり、テレビと新聞が癒着するのは強力すぎてアンフェアである。強力すぎる立場で、同時に特権も握っているのならば腐敗するのは当然だ。このような腐ったものは捨てて、社会に公平な情報を流す事が大事だ。そうすれば、いい仕事をしているリーダーがいれば、それを評価し、素直にもり立てるジャーナリズムが生まれる。それが民意となり、それに大統領制などの強力な権限のある制度が付与されれば、優れたリーダーと強力な権限によって、日本を変える事も可能だろう。特権なんか余計なものを持っているから、それを逃すまいと余計な事をしなくてはいけない。そんなものさっさと捨てて自由に伝えて欲しい。

 

  • 世の中に天才なんてゴロゴロいる。多分、1000人に1人くらいいると思う。だけど、大抵は、それだけの能力があってもきちんと評価してもらえなかったり、その才能から生じる独特の性格を忌避されて評価されない。簡単に本質が分かってしまう為に、人に嫉まれたり、正直に最も効率的な解決策を提示しても、それが従来のやり方と大幅に違ったりすると、あいつはいつも変な事ばかり提案すると言う感じで非難される事もあると思う。私だったら、天才の性格はよく知っているから、彼らにどう接すればいいか分かっている。それは公平である事、そして、客観的である事だ。主観を交えない。彼らの優れたアイディアを主観で評価してはダメ。客観的で公平であってこそ、彼らを評価できる。彼らを評価できないのは、主観的で不公平だからである。主観や不公平には己があり、客観や公平には無私の精神がある。

 

  • 有能な奴を引っ張り出すには無私の精神が必要だ。己を持ち出し、自尊心を剥き出しにしたら、そのケタ違いの才能を嫉む事になるだろう。私は天才の義父と付き合って悟った事は、天才と向き合う時には無私の精神が必要だと言う事だ。そうでなければ、精神的に持たない。無私の精神があれば、天才と向き合うのは、楽しいかもしれない。なぜなら、その才能には無限の可能性があるのだから。

 

  • 優れたリーダーがいるとしたら、度量があり、思慮深く、天才のような人間がいても、嫉む事なく、その才能を活用できる人間であろう。天才を変人と非難しているようでは、リーダーとして失格。人の才を活用できるのは、無私の精神がないとダメだ。判断に己を持ち出すのは愚者の発想。特権や権力を持つと、心の中に己が多くなってしまう。そして、無私の心で人を評価できなくなった時、破滅が訪れる。歴史はその繰り返し。己、己、己、それが愚者の発想。リーダーはその対極にいる。