SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「お前一人が動いても世界は変わらない」というヘタレへ

「お前一人が動いても世界は変わらない」という人はヘタレなんだ。なぜかというと、そういう人間が一億人いて、何もしないのならば、日本は何も変わらない訳だ。つまり、何が言いたいのかというと、他人が動かないと自分が動かないなんていう発想自体が、その時点でヘタレだと言う事だ。
 
人が動いてから自分が動くという受動的な発想からは変化は生じない。逆に言えば、他人が反対すれば、すぐ諦めるようでは進歩は生まれない。
 
人が何か言うと、それに従い過ぎてしまう様な腰抜けには、正しい事は何も出来ない。なぜなら、間違っている人間ほど、自分を擁護する為に強く主張するからだ。そんなものに、いちいち耳を傾けるようでは、正しい事など何も出来ない。例えば、警察が泥棒を捕まえたとする。泥棒は「盗んでいない!」と強く主張する。周りの人間も、泥棒の言う事を信じてしまったりしたときに、警察が、それじゃ多数決でこの人を無罪にしようと言い出したら、秩序は保てない。無視して捕まえるのが筋。
 
これと同じ様に多数決にばかり頼り過ぎて、悪い事をいいと解釈する様な姿勢では、あらゆる面で「義」が保てない。その逆に多数決で良い事を悪いと解釈しても駄目だ。皆がしていないから、これは良い事だけどしないという発想は良くない。
 
そこで多数決に頼らず、何を以て正しいとするかは、人それぞれだが、私の場合は、人が幸せになる事だと思っている。つまり、不幸せであれば「悪」幸福であれば「善」とする。
 
その基準に当てはめて、どうすれば人が幸福になるかという基準で考えてみた時に、何を選び、何を捨てるか見えてくる。そういう基準で取捨選択すれば、多数決なんぞに頼らなくても良くなる筈だ。
 
正しい事は、人や自分が幸せであってこそ、正しい。そういう意味では料理に似ている。料理は独り善がりでは駄目だ。人が食べてみておいしいと言って初めて、それは「おいしい」のだ。他人の幸せを確認してこそ、正義と言える。
 
そういう「味見」をきちんとしない人が偽善者となる。多数決が問題なのは、皆がプリンが好きだから、あなたもプリンが好きにならなければいけないとか、そういう理屈がまかり通ってしまう所。多数決迎合主義というべき、ヘタレ的発想は、あまりにもみっともなく情けない。個人と社会を一体化して解釈する所に無理がある。
 
皆がプリンが好きだから、プリンが嫌いな人がプリンを無理強いされたら、不幸せである。だから、それは悪であり否定されるべきだ。人の幸福を考えれば、自ずと多数決で決めるべき事と、そうでない亊が分かる筈。そういう料理を作る人に似た感覚が、正義には必要なのだ。