SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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証明なき信用は単なる盲信である

最近、分かったのは、人は恐ろしく単純な理屈で、物事を判断していると言う事だった。私が義父と話をする時、矢のように質問が飛び、それに応える事を要求された。だから、物事を判断する時には、そういう質問に答えられるように考えるというのが、基本的なスタンスであった。故に、他人が非常に単純な理屈で判断すると言うのは、全く私には考えられないものだった。

 

何が単純なのかというと、たとえば、業者に仕事を発注する時、業者が「大丈夫です」というとプロが言うからと言う理由で納得しちゃう。私だったら「プロであれば、どのように大丈夫であるか説明できるはずだ」という風に考える。それが説明できないとプロとは呼べない。つまり、プロと言う言葉だけでは、何の説明にもなっていないのに、それに納得してしまう極端な単純さには呆れるのを通り越して、不思議にしか思えない。

 

つまり、物事の説明は、論理立てて適切に証明せねばならないのであり、それがないものは、全くもって信じるに値しないというのが正しい判断をする時の基本的なスタンスなのだが、それがまったく出来ていないのだ。そういう証明を省くと、業者の裁量で物事が決まってしまい、非常に問題のある決定になってしまう。当人たちは、それが正しい事だと思っている。ある程度まで他人を信じるのが大人だと思っているのだが、証明なき信用は単なる盲信である。それは大人でも何でもない、物凄くお人好しな愚か者でしかない。

 

私が優れていると判断した業者は、そういう説明をきちんと出来ており、発注額も低く、また実績も技術力も確かなのに、それでも、殆ど全く根拠のない理屈を持って、別の、そういう事がきちんと説明できない上に、トラブルを起こし、発注額も高い業者を選ぶ。非常に馬鹿げた判断をしている。その判断の根拠と言うのは、私から見れば、殆ど何の説明にもなっていない理由だったりする。そういう杜撰な判断を可能にするのは、非常に単純な発想なのだ。証明にかかわる条件がとても単純なのである。私が義父と対話した時であれば、一瞬で切り捨てられる理屈。質問をいくつか用意して叩けば、なくなってしまうような駄目な理屈。でも、それを言うと、当人の逃げ場がなくなってしまうので、言わないだけなのだけど。言うとね。相手をバカって言ってしまうのと同じになってしまうから言えない。証明のプロセスを踏もうとすると、そうなってしまう。理系同士であれば、そういう話も怒らないで話し合えるけれども、文系の人相手に、そういう証明をしようとすると、バカにされたと思って癇癪を起こすので、言えない。