SKY NOTE

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平和が生む過去への忘却が、現在を戦争に導く

今年も終わりが近づいてきて、ふと、歴史を振り返ってみると、昔であれば、集団的自衛権解釈改憲を容認なぞという事を一言でも言ったなら、ものすごい反対運動が起きて、国会が機能しなくなってどうしようもなくなるような剣幕だったが、今は、それに比べると無風に近いほどの状況、実際には数万人のデモがあったのだが、それも殆ど報道されなかったりして、世の中的には無風という状態。ただ、今の時代に集団的自衛権の問題が何が問題か論じても、理屈を述べても「別にいいんじゃない」と軽くあしらわれるほど軽い。この軽さはどこから来るのかという事について、思いを巡らせば、それは、踏みつけているものは踏みつけられているものの痛みを感じないということではないかと思った。踏みつけているのは平和な時代の現在、踏みつけられているのは、戦争を体験し、酷い目にあった過去なのだ。平和な現在に過去の体験が踏みつけられているのが現状ではないかと思う。踏みつけている人間には、踏みつけられているものの苦しみは分からない。そして、その上位にいる感覚に喜びすら感じる。だから、余裕なのだ。上位にいるという錯覚に酔いしれている。

だが、戦争は人が死ぬシビアな現実であり、甘く考えると痛い目にあうものの中でもワースト1に属するもの、軽く扱っていると酷いことになるのは歴史が証明している。だから、軽くあしらっているというのは、過去の忘却から生まれた錯覚にすぎない。つまり、過去の戦争体験の伝承に日本の教育は失敗したといえるのだ。私達の世代(40代)までは、親の世代、祖父の世代が戦争を体験し、耳にタコが出来るほど戦争の話を聞き、その酷さを叩きこまれている。しかし、私達以降の世代は、その世代がいなくなっている。つまり、伝承世代が一世代だけで継承できなかった。8月になれば毎年のように戦争の酷さを伝えるドラマ映画があって、それを見るたびに戦争は良くないと言うメッセージが日本中そこかしこに流れるという状態だった。今でもそうだが、その真剣さというか重さみたいなもの、その作品に対する気合の入り方などは、全然違っていた。全力で伝えようという総意みたいなは迫力がどの作品にもあった。

だが、そういう作品の力を持ってしても戦争について、知識だけしかない事が災いしているのか、実際に体験した人間の言葉を聞いているというリアリティがないのか、軽く扱ってしまう若者を見ると、何かが足りないのだろう。私達の世代も戦争を体験していない。だが、上の世代が異口同音に戦争はまずい、やめておけという言葉を聞くというのは、よっぽど酷いことなんだと思うことが出来る。その世代の誰も彼もが同じ意見しか言わない異様さが、戦争の酷さを物語っている。それほど、戦争というのは強烈に厳しい状況なのだ。皆に同じ言葉を喋らせるほど、強烈な圧力を人に強いる。その迫力というものを知らない若者が、戦争を軽く扱ってしまうのも無理は無いのかもしれない。要するに戦争というのは、相対化できる種類のものじゃなくて、絶対的に悪なのだ。だから、軽く扱えるようなシロモノじゃないし、命のかかっている極めて深刻な事態、だから、否定するのが、まっとうな感覚であって、軽く扱うのは著しく現実認識が甘いと言わざる負えない。つまり、その甘さ、ゆるさ、そういうものが、今の時代にはある。それを育てたのは平和で穏やかな時代だった。甘くてもいい、ゆるくてもいい、それはある意味、幸せであり、悪いことではなかった。だが、その平和が何によってもたらされたか、自分の足元にどれほどの犠牲があったか、その歴史を忘れてしまったことによって、再び、戦争という悪魔が忍び寄ってきている。

私達が、甘くても、ゆるくても、認められる幸せな時代を続けて、忘れてしまった事実が、結局のところ、厳しく、辛い時代を引き寄せようとしている。逆説的だが、戦争は平和によって生み出されてしまう。平和が生む過去への忘却が、現在を戦争に導く。