SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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何が正しいかよりも、何が良いか考える

最近、何が正しいかよりも、何が良いか考えるようになった。というのは、正しいことを言っても伝わらないからである。正しいことは厳しいので、大抵の人は拒絶反応を示す。つまり、受け入れるのには大きな器が必要なのだ。そもそも、それだけ大きな器の持ち主ならば、その器に正しいことが入り、自然に正しくなっていくので、特にいう必要がない。言えばすぐに受け入れる度量の大きさがある。

だが、現実は、それほどの器のない人の方が圧倒的に多い。大抵の人は、正しさが持つ厳しさに耐えられない。だから、「何が正しいかよりも、何が良いのか」と考える必要が出てくる。今まで私が何が正しいのかと考えていた理由は、正しいことが普遍性を持っており、それをいっておけば、状況が変化しても、適用出来る。つまり、いかなる状況に対しても、胸を張って、こうだと言える。その安心感が正しさにはある。嘘を言わないのと同じだ。ウソを言えば、必ず現実との矛盾が生じる。だが、正直に話す限りにおいて、何も現実とは矛盾しないのだから、何も恐れる必要はない。

しかし、正しいことをそのまま受け入れることが出来る人は少数である。大抵の人は、自分の自尊心が否定されたと思って怒る。事実は残酷である。残酷な事実を人は容易には受け入れられない。ある意味、子供にとってのピーマンと同じだ。正しさには、ピーマンと同じように独特の苦味があるのだ。だから、嫌われる。

そこで「何が正しいのかよりも、何が良いのか」という発想につながってくる。普遍論から、個別論へ向かう道を選ぶ必要があるのだ。まず、この人にとって現段階で何が良いのか考える。つまり、受け入れられる器を査定して、その器にあった主張の仕方にする。大抵、会話をすれば、器が分かる。器の大きな人に現実を直接いっても大丈夫だが、器の小さな人には、主張できる内容を吟味する事が求められる。子供にピーマンを食べさせる難しさがある。いかに現実の苦味を感じさせずに主張するか、これがかなり難しい。

苦いものでも、その主張に筋が通っていれば、無理してでも受け入れるのが、器のでかい人、怒り出すのが器の小さな人。自分が否定されたと思うのだから怒る。だが、違う。間違ったことを認めることが、どういう結果を招くかという事を常に考えている問題意識の高い人は、間違ったことを是正するのが早い。意識の高い人程、器がでかくなると感じる。

人を見て、頭の中でリストが浮かび、これはダメ、これもダメ、これはいけそう、という感じで人にあわせて主張する。どういう風に考えるかというと、この人にとって何が良いことなのかということを考え、それに合わせて主張する。オーダーメードの服みたいに、心の寸法を測って、それに合わせたスーツを仕立てる感じで喋る。これが神経をすり減らし、とても大変な作業に思えるので、今までやってこなかった。ストレートに物を言って、済ませるのが今までの私、しかし、それをいう弊害が最近、無視できなくなって、結局のところ面倒なことでもヤラないとダメだということになり、今に至る。なぜか私は子供に対しては、そういうことが自然にできる。なぜかというと、子供は、シンプルだから。自分はシンプルな発想は、結構好きなので、好きなもののためには、労力を惜しまない。だが大人になると、自尊心、面子、カネ、色々なものがミックスされていて複雑である。これらを考慮しようとすると、途方もなく大変に感じるので、やるのをためらっていたが、しかし、そうしないと結果が出ないし、逆効果になるのでやめた。

最近、若者と話して分かったことは、若者は、結構、客観的で冷静な話を求めているらしく、これならば、いけると感じるような優れた要素を持っていると感じたので、安易に単純化せず、具体的で冷静な議論を展開していけば伝わるのかもしれないと思った。何が良いことなのかと考える姿勢は、ある意味、目的意識を持った主張だ。そういう目的を持つことによって、伝わる言葉を選ぶことが出来る。今までの普遍論では、目的はなかった。正しいことを認め、正しいことを実践すれば、それで良い結果に結びつく、だが、認めることが出来ない場合、正しいことに反発し、間違ったことを実践することになってしまうため、悪い結果となってしまう。そうならないためには、相手のことを大事に思う心、優しい心が必要なのである。

私は、面子、自尊心、カネ、時間など、色々なものが絡み合わさった大人、そういうものに優しくなれなかった。なぜかというと、全部「テメーの事」だから。そういう自分勝手な人間を大事だとは思わなかった。だから、冷酷になれるのである。だが、それを言っても始まらないと思える厳しい現実に直面した時、もはや、そういう残酷さを持つことは、得策ではないと思い知らされた。だから、何が正しいかよりの何が良いのかと考えるのである。