SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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危機に対する感受性

私の母は、もう76歳になるが、同年代の人よりかは比較的、健康な方で「頭が痛いってことはない」とか、つい最近までは「腹痛なんてしたことなかったのになぁ」と最近になって腹が痛くなるようで、困った困ったとウンウン言っている。つまり、普通の人ならば自然にあるアタマが痛いとか、腹が痛いとか、そういうことが、つい最近まで皆無だった母、そういう母に育てられた私の子供時代は悲惨だった。要するに、なぜ私が腹や頭が痛くなるのか理解できないのだ。そんな母親に育てられた私は、自分が辛い時には、自分で面倒を見なくてはいけなかった。要するに健康すぎて、不健康の辛さがわからないのである。

原発に対する問題にも似たようなものを感じる。私だったら、放射能で免疫が弱くなると聞いただけで、とても辛くなると感じる。それは、風邪が一週間程度で治ってしまう人間と、場合によっては数ヶ月治らない人間の風邪に対する認識の違いと言えよう。このように身体が弱いと、放射能の影響の免疫力が弱くなるという事がどういうことなのかリアルに分かる。だが、母のような比較的、健康な人間にはわからない。また、一般的な科学知識があれば、核に侵された体が自分の細胞を攻撃してしまう免疫細胞を見ただけで、生命の根本から根絶やしにすると分かるし、破損した染色体細胞を見るだけで子々孫々まで祟られるみたいな事が分かるのだが、科学知識のない人間には、その恐ろしさがわからない。そして、最も問題なのが、政府がウソを付くはずがないという思い込みなのだが、自分の場合、SPEEDIを見た時に政府が嘘をつく方針だということが分かった。これは、要するに本来は真っ先に伝えなければいけない情報を隠匿した。つまり、その程度の姿勢なのだということが分かる。これも、SPEEDIの情報がどういう性質のもので、どういうふうに伝えるべきなのかということが分かっていないと、それを伝えないということがどういうことを意味するのかわからない。断片的な情報から類推できる政府の姿勢や体への影響、それらが深刻であることを鑑みると危機感が芽生えるのだが、問題は断片から問題を類推できていないと感じるのだ。だが、断片のピースが揃って現実のジグソーが完成した時にはもう手遅れなのだ。

問題は断片の認識は同様にあるものの、その断片の深さに対する認識が浅いと感じるのだ。問題を軽く見ている。それは被害の実態がまだ目に見える形で出てきていないからなのだ。本当に深刻ならば、今すぐある程度の問題が出てくるはずといのが、そういう人の認識だと思うのだが、放射能というのは、目に見えず、そして、後から問題が起きるという点を構造的に把握していないと、見えていない分、軽く見てしまう。最初の年に体の中で放射性物質が濃縮していき、それが高い水準で数年続くと、癌になったり体の異変に繋がる。そういう後からジワジワ来る恐ろしさのメカニズムが分かっていると、恐いと感じるが、そこまで分かっていないと、何が恐いんだかわからない。特に風邪が一週間で治ってしまうような健康な人は、病に冒されると、どれだけ辛いのかということが分かっていないので、軽く見がちだ。この鈍感さに拍車をかけているのが御用メディアで、そういう知見を広めず、むしろ、それがなかったかのように矮小に報道することで、事態をさらに悪化させている。見えない破壊がじつは続いているのだ。

私が人を信じないのは、子供時代の辛い体験から来ていて、結局、自分の体の面倒を見れるのは自分自身という意識が強いからなのだが、大抵の人は、普通に国や家族を信じている。どこかで助けてくれると思っている。だが、核の場合、違う。被害があまりにもでかすぎるためにどこの国の政府も、国民を助けない。だから困るのだ。正確には助け切れないところが出てくる。だから、自分の身は自分で守らなければいけないという意識が必要なのだが、そこまでの意識が、現状では十分ではないように思える。問題はリスクの構造を把握して、どのようなことが起きうるかという想像力の欠如。それが危機感の無さに結びつくのだ。どこかでお任せ意識が残っているからこそ、甘い認識になってしまう。あと、御用メディアがウソをばらまいている状態で社会的な多数決で物事を評価するのは、極めて危険だというしかない。偽りの情報が広まっているために、不適切な判断の方が多数派になってしまうという状態を認識しないといけない。つまり、多数決とは常に広まっている状況を示すのであって、正しいわけではないのだ。広まっていることと正しいことを混同すると核のような目に見えない問題は極めて危険な状態になりやすいと認識すれば、そういう区別もつけられると思うのだが、それを説明しても習慣として根付いている意識を変えるまでには至らないのだ。人を信じてしまうと、酷い思いをするという現実に裏切られたり、それが悪意なく行われたという事から、善人ですら疑う私から見ると、すべての事柄が疑いの対象なのだが、普通はそこまで裏切られることはないので、信じてしまうようなのだ。それがこの問題の危機をより深刻化しているように思えてならない。

私の場合、人間に対する疑いの念から考える習慣が根付いている。疑いとは疑問なのだ。だからそれを解き明かすために考えなくてはいけない。しかし、それを信じてしまうと考える必要がない。それが正常に機能しているときは素晴らしいのだが、どうやら核はそれをぶち壊すらしい。国に対する信頼、報道機関に対する信頼、あらゆる信頼が破綻して、人々は考え始めた。そして、それがデモのような自発的な行動に結びつく。そういう意味では、危機感とは、疑念→思考→行動(危機感)という事のようだ。

 危機感   :疑念→思考  →行動(危機感)
 危機感がない:信頼→思考停止→何もしない

私がよく母にジョークでいう言葉
「信じるものは救われない」(某神様とは逆である)
この言葉は健全な疑念を持ち、自発的に考えることによって、危機を回避するという意味である。健全な疑念とは、根拠のない疑念ではなく、科学的、経験則に基づいた堅実な疑念である。そういう根拠を伴った健全な疑念から生まれる危機感こそ今必要とされているものだと思う。