SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

Pref..
Speech
STOP
Follow..
QR Code
|◀
▶|
QR
×
voice
volume
0
rate
0
pitch
0

嫉妬深さについて

ふと、日本社会が変革を拒む形態として、そこに異常なまでの「嫉妬深さ」があると感じることがある。天才の義父は、物事をストレートに言う人だった。それ故に嫌われた。天才である彼と比較すると世の中のほとんどは「バカ」であり、それをストレートに表現すると「バカ」と言ってしまうのが、義父の特徴だった。間違いではないのだが、人の自尊心を傷つける。

欧米の映画などを見ると、天才が凡人をバカだといっても、それは天才だから仕方がないという表現がされるのだが、日本人は、そこを「仕方がない」とは思わない。普段、色々と「仕方がない」と諦められるのに、有能な人間がちょっと実力の片鱗を見せただけで怒るのは、どういうことなのかと疑問に思って考えてみた。

その説明に適当なのは、上下の認識にあるといえる。つまり、人が他人に嫉妬をするのは、自分より上のものを認めたくないからである。私は、義父が自分より遙か上だと認めていたから、義父に嫉妬などしなかった。むしろ、その才能に畏敬の念を抱き、その価値が世の中に広まったらどんなにいいかと思ったものだった。こういう価値観だと、素晴らしいものは素直に認められる。そして、広めようという意識が働くのだ。

だが日本人はこの逆だ。自分が常に上でないと気がすまないかのように振る舞う。とても傲慢なのだ。彼らは、その傲慢さを隠すために、相手に礼節が足りないと主張する。だが、それは実際には、自分の傲慢な意識をカムフラージュするための方便にすぎない。

なぜ普段、謙虚な日本人が、そこまで傲慢なのかという問に対して、ひとつ考えられるのは、元々、日本人とは礼節を弁えてなどいないという発想でくくると上手く説明できる。ただ、他人の目を異常なまでに気にするので、その意識が謙虚のように見えるだけ、実際には、劣等感が非常に強く、その裏返しとして、極めて肥大化した自意識が存在するのではないか、故に、その劣等感を刺激する才能あるもの優秀なものに対して畏敬の念を抱くのではなく嫉妬をする。しかし、それは劣等感の裏返しなのだ。

私にも劣等感があるが、同時に私は自分を客観視できる部分がある。それ故、そう言う劣等感の裏返しによる自意識過剰を醜いものとして否定することが出来る。そういうことが出来る事が美徳だと思っている。それが出来ないのは愚かだと思っている。それが出来ず、相手を礼節に欠けるとして否定したり、嫉妬深さ故にその存在を否定するのは、愚かであり、そういう愚かさが日本人にあると考えると、普段、謙虚な人が嫉妬深いことに筋が通るのである。

なぜかというと、本当に謙虚であれば、他人の能力をきちんと認めるだけの器があるはずである。その器が全然ないのは、謙虚ではないという証。その傲慢さの根源は劣等感だとすると、他者を異常なまでに気にする比較を中心とした認識、そして、表面的には謙虚に見える態度に対しても、説明がつくのだ。

逆に言えば、その劣等感を刺激しないように能力を発揮することが望ましいのだが、そう言うやり方をしないからといって、その人間の能力まで否定するのはオカシイと思う。