SKY NOTE

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和をもって尊しという偽善

聖徳太子は、「和をもって尊し」と述べたが、この言葉の結果が現在の日本社会である。日本人は何事をも和を重んじ、結果として、一億総談合社会になった。だが、談合社会の閉塞性は酷く、まるで改革というものができない。よって私は「和も過ぎたれば卑し」という言葉を唱えたいと思う。

あらゆる決断に合議を重んじ簡単なことでも全然決断ができない。まるで脳梗塞を起こした肉体のように機能不全に陥った今の日本の姿を見ていると、まさしく死に体である。日本には、リーダーシップを殺す文化がバブル以降、根付いてしまった。

「和をもって尊し」という言葉は、今やそれが行き過ぎて「和も過ぎたれば卑し」になってしまい、全く尊くなく卑しく蔑むべきものとなった。何事も癒着、談合の末でないと何も決められないので、それで人が困っていようが、苦しんでいようが関係なく、過ぎたる和を実現しようとし、酷く停滞し、それによって他人を苦しめる。個々の人間が責任をとることなく、誰も責任をとらない無責任社会を蔑まず、それを「和」と称して尊ぶ。それが今の日本の状態である。蔑むべき和を、尊ぶなど、糞を黄金だといって有り難がるようなものである。

「和も過ぎたれば卑し」なのである。「和」など糞食らえと言いたい。和という言葉を大義名分にして、責任逃れをする姿勢があまりにも目立つ。その無責任さ臆病さが改革の停滞原因であり、その改革の遅れが、社会の発展を妨げている。旧世代の理屈は、単に責任逃れのための口実に和を利用しているに過ぎない。

和という言葉を談合の正当化に用いたり、最初の理念を骨抜きにしたりする。適度な和ではなく過ぎた和は弊害が多い。人は皆違うのだから、最初から違いがあって当たり前で、それを否定し始めたときに村八分とか、独裁とかが芽を吹き始める。故に私は和という言葉にアレルギーがある。

私は、和という言葉は、事なかれ主義者にとって最も便利な言葉だと思う。彼らの主張を通すことは、結果的に何も問題を解決しないことを意味するのであり、そのために和という言葉は最もよく使われる。問題を解決するための責任やリスクの回避に、この「和」という概念が使われたとき、聖徳太子のように「和をもって尊し」と言えるのだろうか?私に言わせると、そういう「和」は「過ぎたる和は卑し」ではないかと思うのだ。