SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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江の母の「思うがまま生きよ」の意味

江が母に「思うがまま生きよ」と言われたのは、江の心根が優しく、その優しさ故に、その思った通り生きる事は、結局、優しさを貫く事になる。天下人になろうとした秀吉でさえも江に頭が上がらないのは、江の心根が優しく、それ故に公平である事が、秀吉が逆らいがたい所なのだろう。秀吉は人間の負の心を利用する事が出来るが、負の心の全くない江のような人間は苦手なのだろう。江の良さは、その優しさから生まれる公平さにあるように見える。優しいからこそ、差別しない。物事を平等に扱い、尊重する姿勢があるから、信長も面白いといって色々見せた。なぜなら、何が優れているか江に見せると分かるからだ。江の性格と対極にいるのが偽善者である。江は物事を平等に見る客観性を持っているが、偽善者は物事を主観的に見て差別する。江も偽善者も正しい事をしようと思っているが、どうしてこうも違いが多いのか?

それはモノを見る目が内向きか外向きかの違いである。江の場合、何か疑問があると他人に質問をする。それも思った事をそのままに、聞いて疑問に思った事をそのまま更に質問するような人だ。故に質問にちゃんと答えないと、更なる質問に曝される為、相手は誠意を持って接しないといけなくなる。よって江の前で嘘偽りは許されない。外向きに強力なのが江の目線である。江の誇り高さは、そうやって人から聞いた事を元に自分が正しいと思った事を包み隠さず他人にぶちまける為、相手は、その公の視点にひれ伏すしかないのである。なぜなら、主観の混じらない強力な客観性は、誰にとっても説得力があり、それ故にひれ伏すしかないのである。秀吉のような知恵者でも江が苦手なのは、その為である。権力を手にしてもやはり恐い。本当の事を言う人だから。つまり、江は強力な外向き指向である。外部のものに徹底的に質問し、情報を集め、その情報を元に正しいと思った事を直球で投げてくる人、よって、おいそれとは逆らえない。客観性に基づいた原則論者に、嘘偽り、策謀は通じないので非常に恐い。だから、秀吉は江の前では背筋を伸ばすしかない。
 
翻って偽善者というのは、江と違って強力な内向き指向と言って良い。自分が正しいと思った事を信じるあまり、外界の現実と自分の考えの矛盾に気づかない。彼らの言葉が空虚なのは、頭の中の内向きの姿勢から生じた主観的思考が客観性を全く持っていないことだ。彼らの言葉は江と違って、他人に質問をしない。「私が正しい」の一点張りである。まさに己の主観の中でぐるぐる同じところを回っているのが偽善者の特徴である。偽善者が偽善者たる所以は、その内向き指向の発想が自分の保身を目的としているからである。だから己の事のみが大事なので己の事しか考えず、他人の事を一切考えずにいられる。それが質問の全くない言葉に表れる。彼らの言葉は常に自己正当化の言葉しかない。だから、彼らは建前を好む、固定された観念を好むのだ。彼らが現実の変動制を意識せず、その内向きの発想とリンクさせて外界に運用出来る唯一の道は、奇麗事なのである。奇麗事がバカにされる理由は、客観的に見ると実質が伴っていないからである。江との違いは、江が客観的な原則論者に対し、偽善者は主観的な原則論者と言っていいと思う。同じ原則論をふりかざすのだが、主観と客観の違いがある。この差が大きい。江の客観性は、率直な質問によって担保されているが、質問を全くしない偽善者にはその客観性が全くない。偽善者は自分の正しさを理解しないものを見下すが、江の場合、自分が正しいとは言わない、相手に質問をして公平な視点で判断を下す。自分が正しいなどといわない。己の素直な心から生じた公平な判断を以て正しい事を自然に主張しているのである。自己正当化の域を出ない主張しか出来ない偽善者とは大違いである。だから、秀吉のような邪心を持った人間は、江に逆らえない。秀吉が影だとすると、江は光であるため、その影を打ち消してしまう。光の前では影は消え去るしかない。故に江は主であり、秀吉は従者でしかない。その為、江の母は別れ際に「そなたは、思うがまま生きよ」と言った。それはつまり、「己の真っ直ぐな心から生じる光で影を消せ」と言っているのだ。江が思うがまま生きる事は、世の中を光で満たす事につながる。それを母は信じているからこそ、思うがまま生きよと言ったわけだ。
 
江を見ていると、真の誇り高さとは、客観性に基づいた公平な判断を貫く姿勢にあると見える。故に、その客観性を担保する質問は常に必要であり、その質問に対し、嘘を言うものは厳しく罰せられる。江に怒鳴られると秀吉が頭を下げざる負えないのは、その公平さから来る自然な厳しさにある。しかし、その厳しさゆえに物事が正常に保たれる効果を持つ。
 
翻って日本の政府、ジャーナリズムに真実を探求する厳しさがあるか、それはないと言って良い。官僚に対し、情報も、それを理解するリテラシーを持っていない現在の政府は無力であり、客観性を担保出来ない、また、その政府を批判するマスコミも勉強不足で情報に対するリテラシーが足りない為、見当違いな批判を展開する事で客観性を担保出来ず、結果として日本はダメになってしまっている。日本社会の不正とはその真実を探求する姿勢のなさ、情報に対するある種の甘さを温床にしている。江のような真っ直ぐな心から生まれる厳しさが今の日本に最も足りないものだ。