SKY NOTE

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コミュニケーションと村社会

  • Communication
  • 本来、別々の個の間に、通じ合い共有するもの

 
「電話、インターネット、直接対話」
 
人はそれぞれ独自の世界があり個々に独立している。しかし、それが対話によって繋がる事により、そのお互いの世界の間に繋がりが生じる。そういう事を絵にしてみた。
 
このパイプが太くなると、個々に独立した世界が一つになり融合する。だが、融合により個は消滅する。日本社会とは、このパイプの部分が同じ文化という事で極端に太くなる事で個が消滅し、ムラという同じ世界観の中に全体を閉じこめようとする。そして、そこから逸脱するものを弾圧する事で融合し一体化した世界を守ろうとする。
 
つまり、極力同じ価値観に互いを入れる事でコミュニケーションが必要のない世界をつくろうとしている。同じ価値観の世界では、お互いを具体的に説明する必要性に迫られない。故に日本人は互いの価値観をきちんと説明するのが苦手である。説明するのが苦手なので、同じ価値観の方が便利だという事で不便な違いを弾圧しようとする。
 
対話というパイプを作るのが苦手なので、逆に言えば、全体を一つの箱に閉じこめる事で、個々の違いを否定し、安定を図ろうとする。つまり、ムラとは言語の代替手段なのだ。言葉のかわりに世界を共有しようとする。それがムラの実体。
 
このムラという言語の機能を維持する為には、お互いが同じムラ空間を共有していなければならず、通常の言語は、その同一性を確認する合言葉の様になっている。(言語が機能するの単語の統一性が必要なように日本村の掟は、単語ではなく価値の統一性が必要となる)KYという言葉も、空気という同じムラ空間の同一性を乱すものを排除する為のものである。部分的にTPOも含まれているが、かなりの割合でムラの掟(同一であるための掟)でもある。
 
日本のコメディアンのギャグが外国人に通じないのは、外国人には日本人と同じムラ空間を持っていないからである。ギャグの構造が合言葉のようなものであり、ムラの掟を理解しているものしか、その合言葉の意味を理解できないのだ。逆に外国のコメディアンのユーモアは、世界中に通じる。それは、ムラというローカルな価値観ではなく、ユニバーサル(普遍的)な価値観をベースにし、合言葉(同一の知識の共有を前提にした言語)ではなく、論理的なユーモア(普遍的かつ論理的な言葉)であるから。
 

チャップリンのモダンタイムスは、映像だけで笑える。言葉に依存しておらず、映像のみで意味を伝えているからである。日本のコメディアンのギャグは、意味を起動する合言葉がないと機能しない。そこに価値の補完がないと機能しない対話手法であり、村の掟に依存している。

 
日本人が物事の意味を論理的に理解するのが苦手なのは、言語を普段、合言葉程度に(知識の共有程度に)しか使っておらず、論理的に意味を理解する必要に迫られない為、お互いの言葉のやり取りは曖昧でも大丈夫だからだ。だから、普段の対話で論理的である必要はないし、意味を深く理解する必要もない。それで事足りてしまう為、物事の意味を理解するよりも、同一の価値を共有するほうが楽なのだ。新しいものを認められないのも、同一の価値とは別の異端なものを認めるのには、苦手な論理的思考力と村全体の合意が必要となるため、どうしても遅くなる。
 

モンティパイソンでは、いかに同じ価値観を他者に強制する事がバカバカしいかという事をスペインの異端審問を徹底的に茶化す事で表現している。

 
価値が価値として機能するのに、ムラの合意が必要である。言語だけではダメなのは、言語以外の言語が存在しているからである。つまり、ムラである。どこの国にも、大なり小なりそういうローカルルールはあるが、日本はそれが強力なのだ。つまり、言語以外のムラの論理に価値の共有の多くを依存している日本人にとって、依存対象を外した全く新しい論理は認めにくいものなのだ。
 
ある意味、ガリレオを裁いた異端審問の様な事が常に行われている社会であり、キリスト教のかわりにムラの論理が機能しているとも言える。キリスト社会が科学によって、キリスト村の掟から脱却にしたのに対し、日本村は、科学と真正面から衝突せず、共存できてしまっているために、影響力を保ったまま存続している。
 
日本村の正当性が、それを上回る価値観、すくなくとも、今までのように影響力を及ぼせないような強力な対立軸を持つ価値観が生じない限りにおいて、この日本村は存続するだろう。日本村の弊害をなくす為には、それを上回る価値言語体系の誕生が必要と考えられる。ヨーロッパではそれは科学だったが、日本はアメリカ型価値観の導入によって、それを実現しようとしたが、失敗に終わった。なぜなら、代替するのには、あまりにも程度が低すぎたからである。もっと高度な価値体系が必要と考えられる。