SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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妥協と悪人

悪人というのは何だかって言うと、妥協を積み重ねてしまった人間の事なんだよ。最初は善人だったかもしれない、だけど、都合の悪い事があると、妥協して曲がる。最初は1度くらい、次はもう1度ずれる。それが2度、3度、そして、最後には180度になって、完全に反対方向に曲がって悪になってしまった人間が悪人なんだよ。

だから、妥協というのは、どこかで踏みとどまる意識が必ず必要で、そこが曖昧な奴は信頼できないというのは、最終的に悪になってしまう人間であるからなんだ。そして同時に悪になる事を自分で止められない人間であるからなんだ。もっと言うと、他人がそれを駄目だよと、きちんと理由を言って説明しているのに、それをバカにするようだと、さすがに手に負えない。

それは、聞く耳を持たず、曲がり放題、曲がると宣言しているようなものだからね。そうなると、相手としては危険な存在となる。いつ何時、妥協が積み上がって自分を騙し始めるかという秒読みをしているような状態。

人は苦しい事があると妥協をし始める。過酷な状況では特にそうだ。それ自体は、責める事は出来ない。人間には限界というものがあるから、しかし、野放図に妥協する事は責めの対象になる。なぜなら、それは悪だから。そして、そいつの考え方が、基本的な不文律を守る意識が低い場合、それは悪の予備軍であり、それを止めようとしても、それを奇麗事といってバカにするようであれば、それはもう悪なんだよ。

それは、ブレーキのない自転車で突進しているような状態で、どこにぶつかるか分からない。そういう人間は友にしておくと、とても危険なので排除する。とにかく時限爆弾みたいなものだからだ。ダークサイドに落ちて、いつ何時、後ろから刺されるか分からない相手だからね。

妥協というのは、不文律というリミッターがないと悪になる。不文律を奇麗事と言い出したら、リミッターがないから、止めどもなく悪に傾く、辛い事が重なる度に、そういう奴は妥協し、それを自己正当化する。その正当化の果てが悪人なのだ。善人とは、そういう自己正当化に限度を設け、踏みとどまる気概のある人間である。

人生は、柳のように、しなやかに曲がる事も時には必要。でも柳が強いのは折れ曲がらない事。折れ曲がってはダメ。曲がっても折れ曲がらない強かさこそ、真の強さと言えるのではないかと私は思う。