SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

Pref..
Speech
STOP
Follow..
QR Code
|◀
▶|
QR
×
voice
volume
0
rate
0
pitch
0

なぜダメだと思いたがるのか?

それは、壁にぶつかった時の辛さから逃れる為である。もっというと、壁にぶつかると、昔の辛い思い出がフラッシュバックして、酷く苦しみ、その苦しみに適応する為に、これは最初から駄目な事なんだと思うことで、受け入れようとする。

この考え方の間違っているところは、ダメでない事をダメであると決めつける事だが、その心理は、あまりにもストレスが大きすぎて、それを許容可能にするために、これは駄目な事だったんだと思う事で、ストレスを軽減するのである。

例えば、天才がいても嫉妬しないのは、そういうものだと思えば、受け入れられるように、非常に大きな壁にぶつかった時も、それを乗り越えられないのは、当たり前の事だったんだ。可能性など最初からなかったのだと思うと、その失敗を精神的に受け入れられる。

要するに精神が許容できるレベルに止めるために、そう思いたがるのである。壁にぶつかったくらいで情けないと思うかもしれないが、それは幸せな家庭に生まれた人の考え方なのである。幸せでない家庭に産まれた子供は、理不尽に諦める事が多くなる。それを許容する為に、最初からダメなのだと思い込む事で耐えてきたのである。その精神の癖が、壁にぶつかった時に生じるのである。

自分を縛って来た親や家族がいなくなり、その壁だって努力すれば乗り越えられるのに、壁にぶつかると、子供の頃の癖で、最初からダメなのだと思う事で自分の心を守ろうとするのである。ショックが普通の人よりも大きいからそうなるのである。壁にぶつかった時、マトモな家にいれば、応援してもらえる。だが、マトモじゃない家では、失敗をすれば傷口に塩を塗られる。その過去の経験が失敗というトリガーによって蘇り、強力な苦痛となって本人を苦しめるのである。

その痛みがあまりにも強すぎるので、これは最初から駄目な事だったんだと思い込む事で、精神の均衡を保とうとする。そういう痛みがなければ乗り越えられるが、そういう記憶を刷り込まれてしまった人間には耐え難い苦痛なのである。子供の頃の私は壁にぶつかると、涙を流し、手が震えるほどだった。普通の家の子は、そんな体験をしていないから、私のその様相を不気味に感じていた。だが、私には酷い孤独と精神の閉塞に陥り、耐えがたい苦痛だった。だから、その苦痛を和らげるためのモルヒネとして「これは最初から駄目だったんだ」と思い込む。不可能の普遍化をするのである。不可能を当たり前の事として受容してしまう。だが、それは間違っているのである。もう、私を苦しめた家族はいないのだから、出口のない精神の閉塞に苦しむような状況は、なくなっている。もう、私は、精神のモルヒネである「これは駄目だったんだ」などと考える必要はないのである。「これは努力次第で可能である」と思えばいい。手足を縛られていた子供時代とは違うのだから。

自分の家族という激痛の素がいなくなったのだから、もう「不可能だと思い込む」モルヒネはいらないのである。