SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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共同体と自我

共同体と自分の心を一体化した時、個を無視した自我が生まれる。日本会議とは、そういう自我の悪い形のひとつだと思う。その反対に、個の多様性を認める共同体を自分の居場所として捉えるのが民主主義だと思う。共同体と自我の一体化は、そういう自我の多様性を否定する。つまり、民主主義とは全く違う考え方。つまり独裁になる。安倍政権が繰り出す公と言う言葉に、共同体と自我の一体性を強く感じる。つまり、日本会議の思想が、そこに色濃く反映されているといえる。

私は猫タイプの人間なので、こういう共同体(群れ)と自我を一体化しようとする思想は、非常にストレスフルな環境であり嫌なものだが、犬的思想の人達は若干違うと思う。彼らは喜んで、共同体に帰属する思想の持ち主である。そうだとしても、食べ物の好みは違う様に、多様性は存在するし、それを認めて欲しいとも思っているだろう。問題はどの程度一体化するかだ。例えば、僕がプリンとトマトジュースが好きなので、世界のすべての人々がプリンとトマトジュースが好きであるべきだと言われたら、誰もが嫌になるだろう。そこまで極端なものは誰も望んでいないのだ。

私は猫タイプの人間なので、人が自由に生きられる多様性は担保するべきだと思っている。箸の上げ下ろしまで人に指図されたくないと思っている。ルールも基本的に自由を保全する為のもの、つまり、他人の自由に干渉しない為のルール、つまり、刑法は認める。問題は、共同体と自我が一体化した人達の発するルールは、個人の自由ではなくて、共同体の自由なのだ。共同体の自由を阻害する個人の自由は、彼らは否定するだろう。つまり、こういう思想は、個人の自由の敵なのだ。

彼らは自分の自我が共同体と一体化している為、共同体の自由を個人の自由として捉えるだろう。だから、彼らにとってみれば、自分達は個人の自由を否定しているのではなく、自分達が設定した自由を他人が否定しているとしか考えない。つまり、自分達が昔から存在する独裁者の片棒を担ぐ狂信者の一団であるとは考えていないのだ。あくまでも、彼らの正義に則って、正しい事をしていると言うのが彼らの考え方なのである。でも、その考え方がメジャーになると、他の考え方を持つ人間を駆逐するのは目に見えているわけで、それを防ぐ為に、日本国憲法には幾重にも、そういう連中が跋扈しないように条文が書かれているのだ。憲法21条では検閲をしてはならないと書かれている。多様な意見を阻害するなと書いてあり、とても猫的で正しい論理だと思う。犬ではない素敵な論理だ。

猫的な人の論理が犬的な人々の権利を脅かすかと言うと、何も脅かさない。なぜなら、共同体に自由が担保されている為、犬は犬らしく、猫は猫らしくいきる事が出来る。しかし、犬の論理の連中が覇権を握ると何が起こるのかと言うと、すべてを犬にしようとするのだ。つまり、猫は犬らしくしなさいと命令される。そうなると、犬以外のすべての人達が、不満を抱える社会になる。だからこそ、共同体と自我を一体化してはいけないのだ。共同体は自由であってこそ、自分らしく生きられるのだ。犬は犬らしく、猫は猫らしく、それでいいじゃないかと私は思う。