私の師匠は、天才の義父だったので、基本的に猫型、犬じゃない。よって、弟子の自分も猫型タイプの人間であるので、日本社会が犬型ヒエラルキーである事は、よく感じる。
こんな感じで見ている。
犬型ヒエラルキーの世界では、マスターがNOと言えば、その下のものは全体がNOという。で、猫型の自分は何を感じるかと言うと、なぜ、みんなで一緒にいる事がそんなに楽しいのか、自由じゃなくて窮屈ではないかという事。
要するに猫型の自分からすれば、自由が美徳であって、それを押し殺して集団と言う窮屈な枠の中にいようとする犬型ヒエラルキーは自由ではない窮屈なものと言う事になる。そういう不自由なものの何がいいのかと言う奇異の目線しか感じない。
とにかく右へ倣えという形で学校では教わる。先生にみんなと一緒に給食を食べろと命令されるが、そんな事はどうでもいい、一人で食いたいという。なぜなら、集団は、何かと言うと、自分のやり方にケチをつけて統一したがるからだ。犬君のおせっかいに困ったものである。俺は猫なのに…。
みんなと一緒の何がいいのかという事に関しては、問答無用で統一すると言う発想が返ってくる。そういうものだと言うのだが、何がそういうものなのか、明確な理由がない。私が義父に理由を聞くと、必ず明解な理由が返ってくるのだが、犬君達は、明解な理由はない。ただ、マスターがそういうからそうするが彼らの哲学なのである。
ある意味、群れで行動し、その総合力で生き抜いてきた狼の本能からすれば、ヒエラルキーは重要になってくる。つまり、軍隊と同じである。命令は絶対だ。しかし、群れと言うものを無視し単独行動である猫系の生物の場合、単独なのでヒエラルキーの命令はそもそもない。というか、そういうものを必要としないスタイルで生きているので、必要ないのだ。ただ、自分の行動すべてに理由が伴うようになる。
だから、なぜ、それをするのかと言う点について、一応、理由があるのが猫型人間の特徴である。犬のようなマスターがいないのだから、そうなる。犬型人間は、マスターが喜ぶと自分も喜ぶと言うミラータイプの喜び方をする。猫にミラーはない、俺様だから。
明確な理由がないのは「マスターがそうだから」とは言えないからである。というのも、マスターが「みんな」という存在で、特定の実体を持つものではないからである。曖昧なマスターをミラーとしているため、明確な理由を持ちえない。だから、何となく、それに従うと言う形になる。猫型の私からみると、犬君のおかしな考え方は、とてもおかしいと二度言ってしまう程、頭がおかしいのだが、そうなのである。そういうおかしな社会が、日本社会なのである。