SKY NOTE

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悲観とは何か? その2 〜相対性の罠〜

昨日は、悲観と言うのは愚問から生まれると言った。では、その愚問は何から生まれるのかと言うと、それは、相対的に物事を比較する所から生まれるのだ。そこで様々な、悲観の原因となっている愚問について、ここに記す事にする。

1.相対的比較には終わりがない。 「限度」を無視する愚問

  • 相対性の罠というのは、そこに終わりがないのだ。「上には上がいる」という言葉があるが、現実を相対化すると、無限に上を見続け、それと比較する事で無限に悲観し続けてしまうのだ。だが、現実には必要な水準と言うものがあり、それに達すればOKと言う事が多い。例えば、私は、幸か不幸か、身近なところに天才の義父がいた。天才だからトップクラスである。これと比較すると、まず、絶望しか感じない。しかし、世の中、天才ほど偉くなくても事足りる事は無数にある。つまり、十分な水準と言うものがあり、それに達すれば、悲観するような現実ではないのに、そのトップランクのものと比較して自分はバカだと悲観する。つまり、相対比較には、現実の必要な水準を度外視してしまう傾向がある。つまり、現実を度外視すると言う愚問から悲観するわけだ。この場合、現実の必要な水準を定量化し、それに達していればOKと言う事にすればいい。

2.高過ぎる目標と比較して悲観する。 「妥当性」を無視する愚問

  • 相対的な比較と言うのは、現実の妥当な水準を無視する傾向があると書いたが、それと同じ種類の事で、高過ぎる目標と言うものがある。達成しなければならない大きなタスクを見て、小さなタスクしか出来ていない自分と比較して悲観する。自分に出来る水準から遥かに外れた水準のものと比較をし、それ以下だと、マイナスだと言う理由で悲観する。これも妥当なタスクの配分を無視している段階で愚問である。これも、現実に出来る小さなタスクをどれだけ積み上げれば大きなタスクが実行可能になるのか定量化して、それを積み上げる事に集中するべきなのに、最終結果という他者が望んでいるタスク水準に目が奪われて、現実の地道な作業の妥当性を無視している点で愚問なのだ。最大の目標と比較するのではなく、どのように積み上げれば最終結果に至るかと言う事に意識を振り向けるべきなのに、それをしないのは愚かである。サッカーで言えば、パスの事を考えずゴールの事ばかり考えるのは愚問である。パスを重ねて、敵陣地に入り、そこから敵をかわし、ゴール前に到達すると言う目線が大事なのに、最終目標のゴールの事ばかり考えるのは愚問と言う他ない。結果ではなく、プロセスに目を向けるべき時に結果に意識が集中してプロセスを見ていない段階で愚問である。

3.苦手な事と得意な事を比較して悲観する。 「違い」を無視する愚問

  • 苦手な事があると、得意な事に比べて出来ない、マイナスだと言う理由で悲観する。これも愚問である。苦手な事と得意な事は違うのに、その違いを無視して、得意な事と同じ基準で苦手な事を見ると言う愚問を侵している。違いを客観的に観察する事が大切だ。つまり、すべての事が出来る人間などいないのである。自分が万能の神でもないのに、それを無理してやろうとしたり、自分には出来ない事があると悲観すると言うのは、万能ではないのに、万能でなければいけないと言う現実から乖離した発想をしている段階で愚問なのだ。例えば私は、運動が出来なかったが、私と他人の違いは、同じ筋力トレーニングをしても、他人は筋力がつくが、私が同じ事をしても、筋力はつかないばかりか、むしろ、体力が衰え、体が弱くなる。その違いから、私が運動をする才能がないわけだから、それについて劣っていても、仕方がないのである。それを無理してやって、結果はゼロである。それは、苦手な事と得意な事の違いを無視し、それを無理に自分に出来るように努力しても、結果が伴わない。それは私と他人の体の違いを無視した愚問の結果だ。現実的な違いと言うものを理解しないのは愚かである。違いを理解すれば、そのような悲観などしなくていい。ペンギンが空を飛べないから悲観するか、魚が陸を歩けないから悲観するか?それは違いを理解しない愚問なのだ。正しいのは、魚もペンギンも海を泳げると考えるべき。つまり、違いを理解すれば悲観する必要はない。

4.愚問の強制に基づく悲観

  • 「限度」「妥当性」「違い」を無視する愚問について書いたが、それらは多くの人にとって、よく考えてみれば、当たり前の事であり、なぜそんな当たり前の事に人が思い悩むのかと言うと、他人から、そういう愚問が供給され、それに応えないと、非難されるという事が世の中には往々にしてあるからである。体力の無い私がぐったりしているのは、それは体が弱いからで、怠けているとか、だらけているとかではない。そういう他人と自分との違いを理解しない人間が、体の丈夫な自分を基準にして人を罵倒する。こういう形で愚問と言うのは外部から供給されることが多い。そして、その結果、普通に考えて当たり前の事であっても、それを無視するように仕向けられる。そして、無理な事をやって失敗して自分は駄目な奴だと思い込んでしまう。私がしなければいけないのは、体の丈夫な人間と同じ事をする事ではない。自分に何が出来て、何が出来なのかを冷静に見据えて、それに基づいて行動する事である。それは、別に体の丈夫な奴と同じ事をする事ではない。自分が出来ない事は無視してかまわないのである。なぜならやっても結果が出ない事は「違い」を理解していれば分かっている訳だから、やらなくてもいいのだ。ペンギンが無理して空を飛ぼうとしても無意味だ。それが違いを理解すると言う事。違いを理解すれば、そういう外部からの愚問を真に受けて悲観する事はない。違うのだから当たり前と考えればいいだけの事。これと同じように天才と比較するのは限度を度外視した無謀なものだし、妥当性を無視した計画など、まったくもって計画倒れにしかならない無用なもの。それらの弁える中に悲観を越えた主体的な意思が生じる。それは他者との相対的な比較ではなく、自分を客観的に見る絶対性から生まれるのだ。だから、相対性の罠にハマってはいけないと常に頭の中に思い浮かべて、客観的になる事だ。そして、限度や妥当性、違いについて弁えれば自ずと悲観などする必要がない事が分かる。