SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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悲観とは何か? その1 〜悲観は愚問か生まれる〜

日本全体に悲観的な空気が漂っている。政治、経済、自分など、様々な事に多くの人が悲観している。悲観と言うのは、何かよりも上とか下とかの相対的な視点から生まれる。社会がそういう比較を常に行っているがゆえ、その需要に応える為に、この相対的な視点が習慣化している。

しかしながら、そういう相対的な他者と比較する視点をやめて、自分の置かれた状況を客観的に見据え、絶対性に基づく定量的な評価をし、相対的な比較をしない視点を持つと、悲観する事はなくなる。例えば、誰かよりもお金が少ないから自分は不幸だと思っている人がいる。その人の年収は300万円とすると、悲観すると言うのは、恐らく年収1000万円の人と自分の300万円を比較して、不幸だと思っている。しかしながら、絶対的な視点にたつと、このデフレで物価の安い時代に年収300万円で不幸かと言うと、そうではない。好きなものは大抵買えるし、ちょっとした贅沢を節約をすれば出来る。絶対的な視点に立つと、自分の置かれた状況が客観視できる。この客観性が悲観しない為に重要なのだ。

私を例にとると、私は子供の頃から、天才の義父と凡人の自分を比べて、なんて自分はバカなのだろうと思ってきた。だが客観的に見ると、世の中の99.9%が天才よりもバカなので、別に悲観する事はない。問題は天才と言う高すぎる比較対象と比べて自分はマイナスであると悲観していた事だ。客観的かつ絶対性に基づいて定量的に見れば、あまり悲観する必要のない事に悲観していたと言えるだろう。私は、そういう「相対性のワナ」にハマっていた。それが悲観と言うものの実体である。絶対的な視点に基づいて定量的に見れば悲観する事はない。

この他にも、自分には無理な事を目指してしまって悲観すると言うのがある。私は生まれつき体力がない。(代謝によって脂肪がつきにくいので、運動をすると糖分も脂肪もすぐに枯渇して筋肉を栄養として使ってしまう)努力をしても筋肉がつかない体質、ハードゲイナーという体質である。自分のような人間が筋肉を付けるのには特殊な訓練や食事をしないと出来ない。普通の人間のようにトレーニングをすれば筋力が自動的につくと言うタイプではない。さて、そんな私の子供の頃は体力がないのでいつもぐったりしていた。何をするのにも疲れてしまう。そんな私にバカな義姉は相手の状況を見ずに、だらけているからだ、怠けているからだと私を罵倒した。馬鹿にされる私は不幸である。無視すればいいのだが、聞いていてあまりいいものじゃない。しかし、義姉がやっていることは、トレーニングをすれば、体力が自動的に増強される恵まれた体を持つ普通の人間と比較して、私をだらけていると言うわけだ。客観的に見てみると、私はだらけているのではない。体力が増強できない体質であるので、いつも体力が不足しているだけだ。義姉の言うように一生懸命やっても私の場合は体力がつかない。通常と違いDNAレベルで決定された状況を覆す特殊な努力が必要になる。つまり、義姉の言っている事を評価すると「一生懸命やればDNAが書き変わるのか?体質が変わるのか?」という事になる。客観的に考えれば、答えはノーである。私の体質では、そういう事は困難で、増強するのには専門知識のレベルのノウハウが必要。普通と違う。ここで義姉がやっている事のミスは、私のような体質の存在を知らない事、状況をよく見ないで自分の狭い了見で他人を批判している事。そういう狭い了見による的外れな評価を私は真に受ける必要はなかった。
それでも、狭い了見による間違った意見であっても批判されるとあまりイイ気がしないので、不幸だ苦しいと思ってしまう。これが相対的な視点のワナなのだ。つまり、悲観的な視点と言うのは自分が望んでいなくても、他人から常に供給される。誰それより劣っている。怠けている。だらけている。そういう他人と比較した相対的な評価を他人が言ってきても、それを自分の状況を絶対的に見据えていれば、なぜ私は、あんたの言う事で他人に勝たなければいけないのか、体力面で劣っているのは明白だが、別の所で勝てばいい。わざわざ苦手な事で競争して、頑張る必要はないという結論が出せる。つまり、悲観する事はないのだ。

子供時代の私自身にそういう客観的な目線と言うものはあったのだが、それが尊重される家でなかった事が子供の私にとっては不幸であった。私が客観性に基づいて、義姉の言っている事に反論すると、彼女は言い訳だと言ったが、別に言い訳じゃなくて、それが客観的な現実だった。反論を繰り返すと、義姉と口論となり、争いになった途端、祖母が争いをやめろとブレーキをかけて私を黙らせる。そういう家だった。私は、現実的でなく、得意でもない事に対して、無理やり目標を設定させられて、それに応えないといけないと言う命令を下されてしまった。つまり、家の中で、私が私である事がけんかの原因になる。私は、なぜ、自分にとって無理難題を要求されて、それに応えなければならず、そして、それを不当だと言ったら黙らされるという問題に直面した。

自分にはどうにもならない事で攻め立てられ、傷つけられ、それを不当だと言う権利すらない。それが当時の私の状況であった。これが私の悲観のルーツであり、それは他人による理不尽な要求が原因であった。世の中には沢山、そういう要求があるのだから、お前の言っている事は夢想だと思われるかもしれない。でも、違うのだ。客観的に見ると、別の道がある。私は体力と言う面で駄目であっても、知性は普通のものを持っているのだから、そちらの方で頑張ればいいだけである。客観的に見れば、他人の明後日の方向の批判などに耳を傾けず、自分の得意な事をすれば良かったのである。悲観と言うのは、ある評価軸の中に自分を押し込んで、その縦軸の上下を比較して、自分はマイナスだと悲観するわけである。でも、自分の得意な分野と言う別の横軸が存在する。他人の設定した縦軸ではなく、自分の得意な分野と言う横軸を見れば、全然悲観する事はないのである。体力の無い私が、体力面で頑張っても大した事はないのだから、客観的に見て、それは間違っていない。私の得意な分野は、その弱さから生まれる。弱いからこそ思いつく工夫と言うものがある。よくよく考えてみて欲しい。車輪を発明した人を、車輪を発明した人は、力持ちだっただろうか?いいや力などなかっただろう。力がないからこそ、車輪を発明したのだ。そして、それは偉大な発明だった。義姉のような狭い了見の人間からみれば、車輪を発明するような弱い人間は否定の対象だが、社会全体(広い視野)で見れば、車輪を発明した人間は偉大であった。弱い人間は、弱い人間なりに長所がある。だから、悲観する必要はないし、また、生まれつきのどうしようもないことや、苦手な事が出来なかったからと言って非難される事でもない。

大抵の悲観と言うのは、的外れで、了見の狭い評価と言う縦軸の上下から生まれる。天才と自分を比べると言う的外れな子供の頃の私、生まれつき体力の無い体質の私を罵倒する義姉、それらはすべて的が外れており、悲観する事はない事ばかりであった。私は自分で自分の評価軸を決めて、それで社会に貢献すれば良いだけの事。私は弱い、だからこそ、人の弱さを理解し、それに合わせたものが作れる。そういうものは車輪と同じように多くの人にとって便利なものである。そういう便利なものを作って世の中に貢献すれば良い。それでいいのだ。私がするべき事は、他人よりも劣っているか優れているかではなく、自分が設定した自分に合った目標に対して、自分に客観的に何がどれだけ足りず、それをどうすれば足せるかと言う事である。それならば客観的に見れば、解決可能である。他人と比較するほど馬鹿馬鹿しい事はない。なぜなら、それは私の苦手な事であり、ペンギンに空を飛べと言っているようなものだ。ペンギンは水の中を泳いで魚を捕ればいい。それが他人にはわからない。だから的外れな事を言う。鳥の翼を持っている者はペンギンの私に対して、どうして飛ばないのかと言う。でもペンギンの私には、それは愚問なのだ。そういう愚問にあれこれと悩むのが、悲観と言うものである。