SKY NOTE

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絶望という名の雑念

どうも自分は、絶望しやすくて駄目だと思ったので、絶望について調べて見た。

 3.苦しみの原因と解決方法
 http://www.ne.jp/asahi/daylight/riron/3.htm

以上のページが参考になったが、非常に長文なのでかいつまんで要約すると、要は絶望というのは、客観性の欠如から生じる誤った見方から生まれるという事だ。例えば、私が体が弱いのに、私の無神経な母は普通の人、または自分の丈夫な体をスタンダードにして、お前は駄目だ駄目だと言いまくる。私は、いつも同じ回答をするが、無神経な人というのは、学習しないのである。同じことを何度も何度も延々と言い続ける。私はそれに耳を塞がなければいけないが、現実問題、それは事実であるので、なかなか否定しずらい。だが、そういう状態こそが問題なのだ。他人と自分を比較して、相対性のワナにはまりこんで、自分が体が弱いという客観的事実を無視して、自分は駄目だと絶望してしまうのである。

私の体が弱いのは、生まれつきであり、私が駄目だというのは正確な表現ではない。努力して体が丈夫になるというのは体の基本がきちんと出来ているからだ。だが私の体は、そのようには出来ていない。栄養バランス、運動、様々なことを試してみたが、基本的な状況は僅かしか好転しなかった。客観的に見ると、私の体の弱さは、私のせいではない。DNAレベルでそうなっているという事実を無視しても駄目なのである。大事なのは、その事実を具体的に把握して、正しく対処することであって、他人と比べて自分に絶望することではない、そういう意味では母のような雑念発生器(絶望発生器)の言うことはことごとく無視しないと絶望して駄目なのである。

私がするべきは、他人と比べる事ではなく、自分の置かれた状況を具体的に把握し、それにあった行動をする事、また、他人の優れた面と自分を比較するのではなく、自分を客観的に見つめて、自分の優れた点を見据えることである。私が自分の優れた点をいっても、母は「それが実行できなければ駄目じゃないか」と常に言うが、間違っていないが、これも耳を塞がなければいけない。要するに自分が実行力があるから、お前の優秀な点など実行できていないのだから無意味だと言いたいわけだけど、母の言っていることは、論点のすり替えによる相対化である。つまり、私の美点は、なにかというと、弱さから生まれている。弱いことによって人の苦しみ、辛いことが分かる。それにあったアイディアを思いつく事だ。それが実行されて億単位の利益を得た知人や企業を見れば、私のアイディアは優れているのは疑いがない。だが、母は、それが実行できているか否かという別の問題にすり替えて相対化する事で私のアイディアが無意味だと言うのである。私のアイディアが無意味ならば、私のアイディアが実用化された時に利益を生まない筈である。だが、実際は巨万の富を生んだ。そのことをもって言いたいのは、私が自分のアイディアについて、何ら絶望する必要はないのである。だが、母は別の問題に置き換えて、相対化し、とにかく利益が出ないことは否定するのである。

恐らく、私が自分のアイディアを実用化して、お金になった時、母は私を高く評価するだろうが、そんな評価など糞の役にも立たないのである。というのは、本当に苦しい時に人をけなし続けて、結果が出れば恐らく評価するというのは、誰でもできる評価方法なのだ。そして、そういう評価の仕方は、結果を生まない。なぜなら、結果が出るまでの苦しい間、人を駄目だ駄目だと文句を言い続けて人を否定し続け絶望させ結果が出ない方向に引きずりまくるわけだから、糞の役にも立たないと言うわけだ。私が注意しなければいけないのは、世間の一般的な現実と自分の現実を相対化して絶望してはいけないのである。私がしなければいけない事は、結果が出ないという大きな現実を直視することではない、そんな事は誰でも分かる。私がしなければいけないのは、大きな現実という大ざっぱな目線ではなく、具体的に何が出来て、何が出来ていないのか、把握して、それをひとつずつ解決することである。このプロセスは地道な作業の連続であり、苦しい時間だ。この苦しみに絶望しない為にも私は、母の言う大ざっぱな現実による批判には耳を塞がなければいけない。私に必要なのは実行であり、実行には、大ざっぱさではなく、具体性と緻密さと絶望しない不屈の精神が必要なのである。母は私の具体性や緻密さを大ざっぱさで否定して絶望させるという完璧な方向で人を駄目にする名人である。その駄目な方向に引きずり込む母の言うことに、いちいち耳を傾けて絶望してしまうと、永遠に結果は出ない。

母は常に利益との相対化によって人を批判する。母にとって利益が最大の価値であり、それが実現できていなければ、それ以外の全ての美点は全て否定の対象なのである。しかし、それを聞き続ける私が絶望して結果が出ない事からも分かる通り、駄目な評価方法なのである。何が駄目なのかというと母の評価の仕方は、人の心を挫くものであり、努力できない方向に人を引きずり込むわけである。常に利益との相対化によって物事を見るので、人をけなしたり、批判するわけだ。この相対化のワナにハマってしまうと、絶望して頑張れなくなる。客観性を失ってはいけない。母の言っていることは大ざっぱな現実である。だが、それは誰でもわかる現実であり、それが重要なのではない。

実行面で重要なのは、結果を出す為のプロセスを着実に実行する具体性と緻密さが必要なのであって、それは今ある状況を大ざっぱに見ることではない。そんなの誰でもわかってるし、それをいつも考えていたら、全体との相対化を常にして絶望する事により、部分的なタスクができなくなって駄目だ。小さなタスクに分解しないと大きなことは出来ないのだから。母の言っていることには矛盾がある。母は、利益というある程度まとまった結果を望んでいるが、それを実現する小さなプロセスや構成要素を否定してしまっていることだ。言って見れば、母の主張には、土台を作らず、建物を造れといっているようなものなのだ。現実的に考えれば、基礎を作り、柱を立て、梁を通すというプロセスが現実には必要なのに、その作業途中で一戸建てがまだ出来ないのかと他人をバカにし続けるのが母のやり方である。だが、私は、自分一人で弱い体を引きずりながら、基礎を作り、柱を立て、梁を通す作業をするのである。残念ながら、日本には母のような目に見える結果が出るまで人をバカにし続ける人間が殆どなので、アイディアだけだと評価されない、私は自分のアイディアの正しさを信じて一人で努力しなければならない。味方がいない中、一人で頑張る必要がある。

自分一人で頑張らず、他人を巻き込んでやれば出来るじゃないかと思う人がいるかもしれないが、日本ではアイディアはタダだと思っている人が多く、アイディアを他人に漏らした途端に、それを聞いた企業や他人は、それをあっという間に実現してしまって利益を生みだす。しかし、私にはその利益をよこさない。なぜならアイディアはタダだから。というわけで、自分の利益を出す為には、一人である程度頑張らないと駄目なのである。日本ではアイディアを持っているだけでは生きられない。殺される。(正確にはタダでアイディアを使われて、飢え死にする以外にない)

アイディアを実現するのにも、アイディアが他人に評価される形まで持っていく作業が必要なのである。この作業も大変だ。だからこそ、私は絶望してはいけない。もし、私のアイディアが実現すれば、恐らく多くの人が救われるのだから。それを実現する為には、相対化のワナにハマって絶望してはいけない。マクロ的に否定されても、そのマクロを実現するミクロの努力を継続する為の希望を失ってはいけないのだ。そのためには、常に自分の置かれた状況を他人の現実と比較して相対化するのではなく客観的に自分自身を見据えることが大切なのだ。(曖昧で大ざっぱな相対視ではなく、客観的で具体的な絶対視が重要)だから、私は母の言うことは無視しなければいけない。恐らく私が結果を出したら、母は手のひらを返して評価することだろう。そして、こう言うに違いない「どうしてもっと早く、それが出来なかったのか」と。そうなった時、私は恐らく、それに苦笑する事だろう。