SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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自分の現実を社会の現実だと思ってはいけない

私が子供の頃、何か明るい事、楽観的な考え方をすると、必ず批判してくる人がいた。義兄の兄の嫁、つまり子供の自分から見れば義姉にあたる人で、彼女は、現実という言葉を使って、人に悲観的に考えるように言っていた。彼女の口癖は「あんたなんか〜こんなもんよ」という主張なのだが、私に言わせると、自分の愚かな現実を他人に押し付けているように見えた。しかしながら、それに文句を言うと義理の祖母が私を慌てて黙らせるので、私は、我慢するしかなくなった。彼女は、人に現実を語れるほど偉いのかといえば偉くない。言っている事が暗く陰湿である。それは彼女の様な頭の悪い人間の現実なのだ。

彼女の発想が嫌になったのは、彼女の運転する車に乗っていて、歩行者や他の車に事細かに文句を言いながら運転していた事だった。でも私に言わせると、非常に些細な事に文句を言っており「お前の為に人は道を歩いているんじゃない」と言いたくなるほどだった。

子供の頃の私から見て愚かだと思うのは、安易な決めつけを頻繁に行う事、このタイプの人は、自分の価値観を結論にしてしまう傾向があり、その個人的な価値観を「社会の現実」として主張する傾向がある。だから、始末に負えない。頭が悪く、結果として、望む結果が得られない自分の愚かさから来る現実を、社会の現実だと普遍化すれば、あらゆるものがマイナスであり、あらゆるものが悲観するべきものだろう。それは、自分(義姉)の低い能力から見た現実に過ぎない。

それに比べて、僕は違うアプローチをとる。難しい事は難しいというが、しかし、他人の能力を把握してアドバイスをする。例えば「これは、とても難しくて自分には出来ないけれども、君にはこれこれこういう能力があるから出来るかもしれない」こういう言い方が出来るのは、他人の能力を把握し、自分と他人の違いを認識しているからこそ出来る。だが、義姉は他人と自己を混同して、現実として捉えている為に、自分と違う意見や方向になると、すぐに否定する。子供の私ですら出来た自己と他人の区別が、大の大人になっても出来ないのだから、相当馬鹿である。私は、優秀な人間を見ていて思ったのは、人間には能力の差がある。差があるのだから出来る事にも差がある。であれば、他人と自分の違いで結果が違う事も当然把握するべき、自分の尺度で決めつけてはいけない。

私は、そういう自己と他者の混同に基づく、決めつけはしなかったし、相手の能力を素直に認める事も出来た。同時に、自分と他人の能力を混同して出来る筈だとか、出来ないと決めつける人間も嫌いだった。私は、違いを理解できない人間が嫌いだったのだ。

人によって違いがあるのに、それを混同して決めつける。さらに、その混同した考え方を普遍化して現実だと言う。そういう事をすると、ミスマッチが生じて、大抵は迷惑な事になる。コーヒーの宣伝に「違いの分かる男、ネスカフェ」とあるけれども、違いが分からない人間は、駄目だと自分は思う。

義兄は、私が風邪を惹いている時に、そんなもの湖を自転車で一周してくれば治ると言ってしまう。その湖はけっこうデカイ湖である。そういうのを、あまり体が強くない私が聞くと、ため息が出る。「能力があっても、そういう違いが分からない人は駄目だな」と思った。