SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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疑う事は考える動機となる

過去の自分のブログ記事を読むと、政治的な危機感から書かれたものが多かった。でも、今は政治の事は、あまり書いていないのは、危機が無くなったからではなく、危機が共有できなくなっていると感じるからだ。現在の危機は、目に見えるものではなく、法律などの文字の世界の危機だ。文字から危機を把握できる人は、この日本には少ないのではないかと思う。そう思う理由を、自分の知人を例にして説明すると、彼は自分よりもいい高校にいった。その学校は偏差値60クラスの優秀な生徒が入る高校である。でも、私は、彼を優秀だと思わなかった。彼は物事を額面通り覚える事が出来ても、その覚えた知識を活用する能力に能動性が全くなかったからだ。受動的に覚える事が出来ても、その覚えた知識を能動的に活用できない。その事を如実に感じるのは、彼の言葉が口語体ではなく、文語体という事である。要するに本で読んだ事を、そのまま喋っている。彼は覚える事が得意だ。だが、覚えた事を自分の頭で咀嚼し、吟味し、自分の言葉にして表現するという事が出来ていなかった。だから、言葉の使い方が口語体ではなく文語体なのだ。それは、どういうことかというと、関連する事項があったら覚えた事から情報を引っ張り出すのは得意。しかし、一見、関連しなくても、そこに能動的に関連性を見いだし、自分の持っている知識とリンクして、それを自分なりに咀嚼して喋るという事は、まるで出来ていなかったのだ。つまり、簡単な解釈は、できるが、物事を観察し、分析して、解釈し、自分なりに知識を加工して喋るという高度な思考活動が出来ないので、どうしても、額面通りの言い回しになってしまう。その結果、喋り言葉が文語体。本に書かれた事のコピー程度の喋り方しか出来ない。

 

そういう知人と正反対なのが欧米の子供達だ。彼らは、自分の考えを持っている。というのは、社会が自分なりの考え方を個人に要求するからだ。アメリカだと異文化の人達が交じり合っている国なので、価値観の差が大きい。よって自分の価値観や考え方を他人に伝える必要がある。そうしないと、自分の立場や考え方を他人に認めてもらえないからだ。日本のように同じような文化だと、そういう事はしなくていいのは楽なのだが、そういう楽な環境に慣れすぎて、自分の考え方を持つという動機に、この国の人間は乏しいのだ。結果として、自分の考え方というのがなく、本に書かれた事を額面通り覚え、それを運用していくという考え方がはびこる。テレビで報道された事も額面通りに覚えて、運用する。自分の周りの現実とテレビの言っている事にズレがあっても、それについて、あまりよく考えない。しかし、例外がある。70歳以上の人は、そうではないのだ。

 

戦争直後を体験した日本人は、マスコミを疑う意識を持っている。というのは、お上が戦時中と戦後で全く違う事を子供に教えたからだ。社会体制が変わると、モノの解釈が180度かわってしまう。しかも、戦争には勝っていると言われてたけれども、実際には負けていた。現実と違う事をマスコミが大規模に流布し、それに従って、社会が動いていた。つまり、マスコミというのも体制に組み込まれれば、信用ならない食わせ物だという事を肌感覚で知っているのだ。だから、彼らはマスコミの言う事に眉に唾を付けて聞く習慣がついている。そして、重要な事は自分で考える。そうしないと、再び戦争を起こされて殺されかねないという危機感がある。そういう社会全体がおかしくなるという事を体験した世代は、社会というものが、あまり信用ならない、いい加減なものという認識がある。だからこそ、自分の頭で判断する。そういう世代が戦後の日本を背負い、高度成長を支え、平和主義を貫いて、現在の日本を作り上げた。

 

しかし、そういう認識がない、その後の世代は、社会について一定の信頼を置いている。それは、古い世代が公正な社会にするべく努力した結果であるのだが、その高い安定性が、逆に過剰な社会への信頼へと繋がってしまった。私が、そんな一見、善良な社会に対して不信を抱いたのは、いじめられた時の体験からだ。社会というのはこうも、不正な事について傍観する。非常に弱い価値観しか持っていないと感じたからだ。そうやって社会を疑う事は、それについて考える動機となった。反面、私の知人などのように社会が何となく巧くやってくれるという漠然とした期待感を持っている人間は、社会についてあまり真剣に考えない。それは、それほど社会を疑っていないからだ。自分が社会によって痛い目に遭わないと、人は社会について、あまり真剣に考えない。戦争を体験した世代は、戦争によって社会に痛めつけられた。だからこそ、社会について疑い、考えるという動機があった。そして、法律の文言に神経質になった。だからこそ、憲法9条などにこだわる。しかし、社会を信頼していると、そういった事に疑いを持たないから、あまり深く考えない。信頼しているから大丈夫と思ってしまう。でも、私は知っている。この日本社会は弱いと、その弱さを知っているから疑う。そして考えるのだ。私の知人は疑わないので、あまり深く考えない。だから、マスコミの言った事を額面通り受けとる。それが多少現実と違っても、深刻だと思わない。信頼しているから。でも、私は信頼しない。なぜなら、私は、いじめを通じて社会という奴に痛い目に合わされたし、その痛みは私の心に刻まれているから。だからこそ、私は考える。そういう意味で、私は、非正規雇用で社会に痛い目にあわされている若者とは知人と違って話が通じるかもしれないと思い始めている。彼らもまた社会に痛い目にあわされ、疑い始めている。それは良い傾向だと思う。そうであってこそ、額面通りでない真の現実が認識できるからだ。