SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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友達の出来ない絶対アルゴリズム思考の自分

日本社会全般が他人と相対化して自己の立場を決める「相対アルゴリズム思考」とすると、自分の思考形態は、普遍的な基準に基づく「絶対アルゴリズム思考」である。自分がそういう考え方になったのは、天才の義父の影響だった。義父は、物事に根拠や理由を求めた。つまり、他人がどうだとか、ああだとかではなく、きちんとした理由、根拠を求めた。だから、ニュースを見ながら、この戦争はどちらが勝つかとか、そういう話をしていた。

義父の説明は、基本的に短く鋭く、そして明解であった。そういう説明を毎日聞いていると、基本的に相対化して物事を考えない。なぜなら、あまりにも明解に物事が把握できるからだ。目に見えるように把握できる。つまり、目の前にハッキリ見えているわけだから、そこに他人がどうとか、こうだとか、そういう余計なものが入り込む余地はないのである。

だから、ハッキリイメージしているので、ほとんど上から目線で結論を言う癖がつく、これが高飛車だと思われる。でも、そこには明解且つ絶対的な理由があって、そういう言い方をする。理由を聞かれてもハッキリ言ってしまう。そして、それに理解を示さない人間に「なぜ?」と質問してしまうくらいなのだ。こういう話をすると、とてつもなく傲慢に見えるだろう。だが、なぜと聞いた時にきちんと理由を言えれば、私は聴くのだ。だが、大抵の人は、その理由を言わない。もっというと言えないのだ。なぜなら、私のように絶対的な基準で考える癖がついていないから。

相対アルゴリズムで考えているのは「誰それがあーだ、コーダ」というのが好きだ。だが、自分は、そんなものは無視。権威は無視、それは事象と全く関係ないから、自分は現象の観察が重要。これは異端審問官とガリレオの違いだ。異端審問官は、物事を神と相対化した世界で生きている。だが、ガリレオは観察によって証明された絶対性のある世界で生きている。

すると、相対化された世界観と絶対的な世界観とで摩擦が生じる。絶対的な世界観の私は、相対性は無視、それは事象と関係がなく根拠がないと見る。これは義父の考え方。子供の頃の私は、義父に対し根拠のある説明をしなければいけなかった。それが出来ないものは否定される。しかし、相対化されている世界では、これが逆転する。相対アルゴリズムだと、権威を中心に相対化されているので、権威に近づけば近づくほど、正当化される。権威と現実は関係がないといっても、彼らは、そうは考えない。例えば、テレビに出てくる専門家は、一種の権威である。偉い先生が言うのだからという理由で、言っている事が滅茶苦茶でも一応評価される。イラク戦争の前に知人との会話で、知人がピンポイント攻撃だから、大丈夫だと言った時、私は、高速で飛ぶものを正確な位置に落とすのは難しいし、また、爆発した時の衝撃波や破片が周囲に飛び散るから、大丈夫じゃないと言った。知人は、アメリカと言う大国が言うのだから大丈夫だろうと考えたが、私は、ミサイルと言うものの物理的要素で考えていた。実際は、私が正しかった。知人は、私の話に納得していたので、摩擦が起きない方のまともな人間であった。

知人が何を間違ったかと言うと、現実とは関係のない権威による正当化を行ってしまったからだ。そんな私は正しいのだから尊重されるのかと言うと、そうではない事が圧倒的に多い。私の知人はマシな方だが、一般的に、正しかったとしても、権威に反するものは否定されるのである。なぜなら、権威と違う事をいっている変わり者という理由で否定される。つまり、異端者と言うわけである。権威を信じると言うのは宗教に似ている。私は、その種の根拠のない宗教を信じないのである。明解な理由と根拠を信じるのである。だが、その対立の構図は宗教戦争に似ている。何を信じるかの違いで争うのである。そして、大多数の人が相対アルゴリズムで動いている為に、絶対アルゴリズムで動く私を拒絶し、結果として私は友達が出来ないのである。彼らから見れば、私は異端者だから。

さて、私に友達が出来ない理由は、世の中にとって、あまり重要な事ではない。しかし、相対アルゴリズムの危険性は関係がある。正しい事を認められないのは、要するに権威を中心とした相対化した目線で物事を考えているからである。異端審問官の様にね。神と言う最高権威を中心に考えているので、その神の言っている事が現実と違っていると、現実を否定する事になってしまう。日本人の多くが、周囲との相対化アルゴリズムで動いているために、目の前にある正しい事を認める事が出来ないのである。この事が、多くの間違いを容認する事になる。そして、私のように絶対的な基準で考える人間を排斥するので、よりいっそう、おかしな方向に行くのだ。それは実はとても危険な事なのである。

 

その危険性を説明するのに、いくつかの質問をして、それに答えるシナリオを書く。

 

君は国が言ったことを信じるそうだが、それについていくつか質問しよう。

 

問1、国はウソをつかないだろうか?

 

>ウソをつく事もあるな

 

問2、国は常に正しいか

 

>よく間違えるな。

 

では、ウソもつくし、よく間違えるものをなぜ君は信じるのか?

 

>確かにそうだな。誘導尋問のように思えるが…

 

これは、誘導尋問のように思えるが、事実を確認して、論理的に考えただけなのだ。君は最初に国の言ったことを信じると言った。しかし、実際はウソをつく事も間違える事も知っている。でも、正しいと考えるのはなぜかと考えて欲しい。君は、最初、国と言う大きなものの権威に従って、正しいと信じたのだ。しかしながら、私が事実を確認し、どう考えるかと聞いたら、権威が剥がれ落ち、事実が残ったと言うわけだ。

 

>つまり、私は事実を知っていても、権威を優先し、信じていたと?

 

その通り。

 

事実よりも権威を優先し、間違った事を認める。それを多くの人がやることがいかに社会的に危険なのか、よく考えてみて欲しいのだ。