SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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政治家の選び方 ---記憶力と判断力の違い---

私は自分よりも、いい学校に行ったのに、かなり初歩的な政治的判断、つまり、政治家を選ぶ事が出来ない友人を罵倒して絶交してしまった。彼の話を聞くと政治家を選ぶのに、人柄だとか、誠実さだとか、非常に曖昧な基準で選んでいる事に私はぶちきれた。バカじゃないのかと、また、当時、都が奨めていた副都心計画を、その候補、つまり、青島が中止にすると言い出した。まず、あそこまで進めてしまったものを、最少のコストで幕引きをする為には、中止をしてはいけない。というのは、それをやるのは余計なコストがかかるのだ。規模を縮小しつつ、副都心として機能させて、ある程度の利益が見込める構造にするのが最も、都にとって最少のコストになる判断なのに、このタレント候補はその程度の基本的な事もわからない。ハッキリ言ってバカだった。

私は、その知人に対して、そういう問題点を指摘しながら、君は大学で何を勉強してきたのかと罵倒した。自分よりも良い学校に行っているのに、何でこの程度の事も分からないのか訳がわからなかった。最近、その当時の事を思い返してみて、なぜ、彼が判断できないのか、知能的に私に劣っているわけはないはずなのに、どうして、基本的な判断が出来ないのか?

私が青島氏について考えた基本的な欠陥は以下の通りだった。
1.タレント候補で実績はゼロ(実績)
2.組織を動かすような立場にいた事がない。(リーダーシップ)
3.副都心計画を最少のコストで幕引きするのには縮小がベストなのに中止という稚拙さ
 (財政的感覚:金勘定)

その知人が青島を選んだ理由
1.人柄が信用できる。
2.知っている。

なぜ、知人の考え方が間違っているのか?それは、歴史を紐解けば、善意があっても、それを実現する実務能力がなければ、まったく意味がない事は歴史書に書いてある。善意があっても財政的なつじつまが合わないと実現できない事も歴史書に書いてある。

さて、私よりも学校の点数がいい点を取っていた彼が、この歴史書に書かれている事をよく理解しなかったのは言うまでもない。彼と私の違いは、歴史書を丸暗記していた事と、その意味を理解していたかの違いである。学校の点数は、丸暗記すれば一応とれる。しかし、意味を理解しているかどうかは、あまり判定されない。私は歴史書に書かれている善意があっても実務能力の無い指導者が失敗する様を見て、政治家を選ぶ時には善意だけでなく実務能力を見ないといけないと考えたり、財政的な問題で何度も王朝が滅ぶのを見て、行政を動かす政治家には、金勘定がきちんと出来ない人を選んではダメだと考えた。こんな事は、中学生だって教えれば分かる程度の内容であり、あまりにも馬鹿馬鹿しかった。

本に書いてある事を、ただ覚えるだけで、その意味を理解せずに間違った判断をする。ある意味、非常に初歩的な判断からして出来ない。非常に判断力が稚拙で愚かすぎる。青島がいくら善意があろうとも、それを、実現する能力がなければ全くの無意味である事は、歴史書に書いてある。本を読んで、その意味を理解すれば、過去の間違った判断を避け、正しい判断が出来る。しかし、その知人は、本を読んでも、その意味を理解せず、過去の間違った判断を繰り返すと言う愚行をやっていた。私は「君みたいな人間がいるから日本の政治は良くならないんだ!」と彼を罵倒した瞬間、絶交が決定的になった。ハッキリ言って私は、最低のものの言い方をしていた。正しかったけれども、間違った言い方をしていた。

正しい事が認められる為には、正しい言い方をしなければいけない。私はその点を間違っていた。内容は間違っていない、だが、罵倒して傷つけて、そして、何の意味があったのかと言うと、何の意味もないのだ。彼が青島を選んだのと同じくらい、私の言い方は無意味だった。私は、そんな彼を思い出しながら、学校の成績が自分よりもいいのに、基本的な判断力がないのは、なぜかと考えていたら、要するに学校で判定しているのは、記憶力であって、その知識の意味を理解して培われる判断力ではない。だから、彼のように初歩的な判断力がなくても、一応、自分よりもいい学校にはいける。だが判断力はないので、まともな政治家を選ぶ事が出来ない。故に、日本は駄目な政治家ばかりが選ばれる。

 

 ビスマルクの格言

 賢者は歴史(書物)に学び、愚者は経験(失敗)に学ぶ

 

ビスマルクによれば、賢者と愚者の違いは、本(歴史書)を読んでその意味を理解し判断(学ぶ事)できるか否かである。それは、彼が良い学校に行く為にしてきた、膨大な知識の集積に比べれば、ずっと簡単で誰でもできる事である。本を読んで理解する、それが出来れば、愚者ではないのだ。単に本の字面を読んで覚えるのではなく、それがどういうことなのか想像しながら読む、そうする事で判断力が磨かれ、愚者ではなくなるのだ。

 

若かった私の心情は、歴史を少しでも知っていれば、民主的な権利を勝ち取るのに、先人たちが、どれだけ苦労をしてきたか、その血と汗によって、ようやっと手に入れた権利を、ここまでいい加減かつ不真面目で、なんとなく使い、そして、それが衆愚政治を生み出していると感じると、怒りが込み上げてくるのは、ある意味、妥当な感情ではある。先人たちが命をかけて手に入れたものをぞんざいに扱う態度に怒る。間違いではないが、そこで怒ってしまったら負け、全てを台無しにする。怒りをさらに進化させて、怒りを通り越して冷静になる事が大事だったと今にして思う。本当に怒っているのならば、その過ちを正す事に全ての精神のリソースを使い、自分の感情を切り捨て、この悪い状況を打開する事に意識を振り向けるべきであった。若い頃の私にそれを求めるのは、若干酷とは思ったが。そうするべきであった。若くてもそういう冷静な判断が出来る人はいるしね。

 

判断力は、想像力によって培われる。これは、単純に人の書いたものを覚える程度では身に付かない。ちゃんと読んで、ちゃんと考えて、ちゃんとイメージして、それを現実と比較して検証し、精度を高める過程で判断力と言うのは身に付く、彼は恐らく、そういう事を怠っていたのだろう。