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SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

続ける事が出来ない自分

最後までやり続ける事について調べていたら、それは、やればやっただけ結果がついてくるという考え方でやるらしい。でも、私は、途中でやっても結果は出ないと辞めてしまう。努力に対する信頼がないのだ。私は運動は、いくらやっても筋力がつかない体質で、頑張っても無駄だった。学業では、子供の頃、塾の先生に基本が出来ていないと言われて、進んだランクを一気に2ランク下げられた事がトラウマになった。つまり、何ヶ月もかかってやった努力を先生の一言で一気に下げられた。あまりにも酷かったので、その数ヶ月後、私はその塾をやめた。

 

体力のない私は勉強で頑張るべきだったが、元々、無理やり入れられた塾での勉強で、やる気ゼロで、遊ぶの我慢して夜遅くまで勉強して、何ヶ月もかけて進んだランクを、先生に一気に下げられた時、私の頭に頑張っても前に進まないという努力に対する不信が根付いた。今思えば、あの塾の先生は私の自尊心を極端な方針で、ぶち壊したと思う。そんな事は、何のメリットもなく、やってはいけなかった。ただ子供の自尊心をぶち壊して勉強嫌いな子供を作るだけだった。

 

振り返って思うに、運動は、普通の人が持っている才能がなくて前に進めなかったり、学業は、経験不足の先生に自尊心をぶち壊されたりして、努力しても結果が出ないと頭に刻みつけられた感がある。頑張っても失敗する。失敗体験が私の継続力を削いでいた。継続する為には、やればやっただけ成果が出るという信頼感がなくてはいけないと言うから、この信頼感を子供の頃にぶち壊されたのが、私にとって不幸だった。成功体験の積み上げが自信に繋がると言うが、私には、それがなかった。だから、成功するまで続ける事が出来なかった。

 

つまり、私が成功するまで続けられないのは、失敗体験によるものである。失敗体験が、努力しても、結果は出ない。辛いだけで何も結果はでないと心の中で私に言ってしまうのだ。そして、それを私は認めてしまう。そうする事で成功するまで続けられなかった。でも振り返ってみれば、それは、私が能力がなくて、そうなったのではなく、能力はあっても、それを信じられなかったからだ。なぜ信じられなかったかと言えば、あの先生の酷いやり方で失敗したのに、それを自分の失敗と受け止め、永続的に自分は駄目だと思い込んでいた。私が成功できなかったのは、他人の駄目なやり方で生まれた失敗を自分の失敗として捉え、その失敗が元で努力に対する信頼が揺らぎ、継続できなかった事で、その後のすべての事に失敗した事にあると分かった時には、続ける為に必要なのは、努力しても結果が出なかった理由について考える必要があると思った。

 

私の場合、あの先生の駄目なやり方の結果だと思った。能力があっても駄目な指導では失敗する。やり方がまずければ、能力があっても失敗する。私は、新米の先生のマズいやり方で失敗した事を、自分の才能のなさだと思い込んだ。そこが失敗だった。先生の駄目なやり方で失敗したのに、自分が駄目だと思い込み、一生懸命やっても自分は駄目だと思い込んでしまった。それが私が継続できなかった理由なのだ。人のせいにしてはいけないと子供の頃に祖母に言われたが、それは、他人の下手糞な教え方や自尊心をまるで考えない駄目なやり方も子供の責任と言う事にしてしまっては、その後の人生に、あまりいい影響を与えないと自分を見て思う。自己責任論は、自分と他人を客観視するのを阻害して状況認識に歪みをもたらし、正しい努力を出来なくして、人の成長を妨げる。

 

公平に見て、成功するのには正しい努力が必要である。間違った努力の仕方を指導されれば、失敗する。私は、自分は失敗しても、なぜか他人に成功する方法を教える名人であったりする。そういう自分から見て、塾の先生の教え方はセンスがなかった。教え方は相手に合わせず杓子定規、やる気の源である自尊心は壊す。大人になった私から言えば、最低、ヘタクソ、クズと言ってしまうレベル。そういう駄目なやり方で失敗するのは当然だと思う。それは駄目すぎるから。人を頑張らせる基本から間違ってる。教え方はヘタクソ、それで結果が出ない事を罵倒して自信を奪って、やる気を奪い、それで続けられないのは、自分のせい。最低だね。駄目すぎる。

 

私だったら、まず、相手が何をわかっていないのか聞いて、それに合わせて教える。出来た事は褒める。出来ない部分は、どうすればいいか教える。出来なくても罵倒しない、それは何の益もないから。出来たら褒め称え、努力の結果だと褒める。自尊心は傷つけない。これは、私が塾の先生にされた事の反対をしているのである。これをやると、大抵の人は結果が出せる。これを自分に出来なかったのは、自分は他人のように見えないからだ。他人の顔を見たり、口調から、他人の心情をくみ取って話すが、自分で自分は見えない。鏡でもない限り。自分の心情と言うものは意外と自分ではわかっていない。自分をよく知らないと、自分を変える事は出来ない。自分の心を知る事で、チェーンの外れた私の自尊心と言う自転車が前に進み始める。私が前に進めなかったのは、子供の頃に、自尊心のチェーンを駄目な先生に、けっ飛ばされて壊されたからだ。そして、祖母に言われた自己責任論で、その修理ヶ所を見る事を許されず、修理できなかったからだ。人の心も、修理するには、壊れた原因を見る必要がある。その原因から問題を辿り、修理する方法を見いだす事が出来る。しかし、これを見る事を禁じられてしまった為、私は、見れば治せたものを治せなかった。他人のせいにしたら、厳しく批判される事が分かっていたからだ。心の自由や判断の自由を奪われると、簡単な事も自分で治せない。他人について、それを治せたのは、他人は自分と違って、判断の自由や心の自由が規制されておらず、批判されないと分かっていたんだと思う。だから、本来の私の正しい判断力が機能したのだ。

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