SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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絶望は無力感である

社会を見ながら思うに、絶望に満ちている。憲法の改悪情報が流れても、殆ど反応なし、緊急事態条項の危険性がニュースステーションで伝えられても反応が薄い。このように重大な事があっても反応しないのは、要するに何をしても何も変わらないという絶望感ゆえではないかと思う。

 

そこで絶望感とは何なのか、自転車に乗りながら考えてみた。自分が絶望した時の事を考えると、それは無力感であった。まるで自転車のチェーンが外れたように空回り状態。そういう時に人は絶望する。自分の力が全くもって無意味に感じるのだ。

 

多くの場合は、空回りしている原因は、自分だけでなく他人の責任も大きいのだが、子供の頃の私は、人のせいにする事が許されていなかったので、すべて自分の責任という考え方をする事になった。これは、強制であり、命令であったため、私がそれは無茶だと思ったとしても、それに反する考え方をしたら、家の中が大騒ぎになる。そういう家だった。

 

子供にとっては、心の自由が全く持てない家だった。振り返ってみるとそのような強制の中で自分を客観視する事が出来なくなってしまった。大人の強権による無理な注文を黙って聞く、ダメなのはすべて自分がいけない。他人の責任にしたら怒られる。元々は、無理な命令を聞いて、辛くて苦しくて、結果が出ないのは、そういう子供の気持ちや意思を完全に無視した大人が全面的に悪いのだが、その当たり前の発想が一切許されない。お前は、お金を払って塾に行かせてもらっているのに、それに行きたくないとはなんと贅沢な悩みだと逆に怒られてしまう。(この理屈で言うと、お金を払えば他人の感情は無視していいという事になる。そういう凄い事を言っている事に気づかないおかしな家)

 

そういう家にいると、状況を認識する事に大人の許可がいるようになる。他人の意思を無視する大人が一番悪いのに、それを批判できない。考える事が何もかもが硬直するのである。自己観察が出来なくなる。自分の感情も無視しないといけない。自分の感情を直視して、それを表に出せば、家の人間に批判される。とにかく黙らないといけない。

 

私は、自分を見る事が出来ない事が無力感に繋がっていったと思っている。感情を表に出すと避難される家であるため、感情も押し殺す。言いたい事も言えない。言葉を奪われて、何も言えない。無力感だけが募る。自分自身もよく見えなくなる。自分が何を望んでいるのかよくわからなくなる。自分を見る事が許されない。自己の感情がよくわからなくなる。そういう世界の中にいると、ただただ無力感しかない。他人の責任に出来れば、何がいけないのか、外部に転嫁して、その上で自分のやりたいようにやる事も出来ただろう。でも、それを考える事が許されない。

 

自分の感情について考える事を禁止される。そうなると人間は、無力感しか感じないのだ。それは絶望なのだ。自分が何を望んでいるのかわかれば、そこから、目標が生まれ、何をどうすればいいのか分かるようになる。そして、それを他人が邪魔をしているならば、他人のせいにもできる。何よりも自分を見る事が出来れば、自分が何に絶望をしているのか分かる。そして、絶望している理由もわかる。でも、それを考える事を規制されている家では、それがわからなくなって、ただ、無力感を感じ、絶望するしかない。

 

自分を見る事で自分ののぞみがわかり、自由に考える心の自由がある事、それが、人に希望を与え、絶望から人を解き放ってくれる。