SKY NOTE

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客観的に正しい事と社会的に正しい事は違う。

客観的に正しい事と社会的に正しい事は違う。
天才だった義父がなぜ、優れた才能がありながらも大成しなかったのかと思いを巡らしていると、親父は、正しさにこだわりすぎたと感じる。客観的に正しい事を重んじるあまり、人の心情などをあまりにも無視しすぎた。その結果、正しい事をいっても、それが社会的な広がり持つ事が出来ず、結果として、大成しなかった。

義父はある面で正しく、ある面で正しくなかった。では、どの面で正しく、どの面で間違っていたのかと考えてみると、客観的には正しかった。社会的には間違っていた。つまり、客観的正当性を重んじるあまり、社会的正当性を無視したのだ。

では、客観的に正しい事と社会的に正しい事とはどう違うのかというと、歴史的には、客観的に正しいものがガリレオだとすれば、それを裁くキリスト教社会が社会的に正しいものである。客観的に正しいというのは普遍的な正しさがあるわけで、100年経っても、不変なのだが、それが正しいからといって必ずしも尊重されるわけではない。社会的正当性とは、世の人々が、それが正しいと信じている事である。これは時代とともに変わる。

問題は社会的に信じられている事と、客観的現実が食い違う際に生じる。キリスト教の魔女狩りや異端審問などは、その典型だ。キリスト教を唯一無二の真理とする社会では、それと異なる考え方は異端であって真実ではなく、否定され、場合によっては殺される類いの事であったりする。この場合、社会的に抹殺される。

これと同じように日本の社会も、集団の感情に配慮する事が当たり前とされ、それが現実以上に重要視される社会において、義父のような客観的な人間は排除の対象となった。そういう 配慮が出来る事が大人だと認識されている社会なのだが、逆に言えば、現実を直視できない幼稚な社会とも言えるのだ。

だからといって、ガリレオの時代のキリスト教社会が一瞬で変わるなどという事はなく、その時代の社会にいきる以上、殺されない程度に間違いであっても、キリスト教を尊重しなければ、生きていけなかったという現実は無視するべきではない。しかしながら、その為に現実を無視していいという事にはならない。そんな事をすれば現実の問題が解決できなくなる。その中間にあるグレーの部分に思いを巡らす事こそ、真に大人といえよう。

実は、そのやり方も自分は大体分かっている。それは真正面からぶつからない事だ。偽りにならない程度に調子を合わせておく、これは、私が子供の頃にやっていた事であった。大人になってからそういうやり方に嫌気がさし、本音をズバズバ言うようになったので、私の場合は子供の頃は大人で、大人になってから子供になったといえよう。

祖母のいる家から出て、言いたい事が言えるようになり、自由になったので言いたい放題いっているのだが、しかし、それは義父と同じような失敗をしている自分にも気付いている。ただ、自分は、師匠が義父なので、美意識も同じなのだ。真実に基づく合理性、これを重んじるという所は。

しかし、それが成功しない事も分かっている。これは物事を見通すのには良くても、社会的には抹殺されるやり方だ。特に集団の感情に配慮する事が現実よりも優先される全体主義的な日本社会では、そうなる事も分かっており、それに対処する方法も分かっている。ただ、そういう全体主義が私は嫌いであるので、それに逆らうがごとく、モノを言う。それが私の美意識だった。

しかしながら、私はグレーの部分にも思いを巡らすようになった。なぜなら、現在、日本は、アメリカを中心とする外国勢力に構造改革という名の侵略を受けている。この構造改革が進行してしまうと、命が危ない。命と主義主張を天秤にかけた時、いのちの方が重要であるというのが、私の現実主義であるので、昔のやり方を頭の片隅から引っ張り出して、再びやる事にしようと思っている。