SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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ダマされる人は、方向音痴に似ている

私は、子供の頃よくイジメられ、毎日ウソをつかれていました。というわけで、私はウソを毎日のように浴び続け、嘘を見破る習慣がつきました。

では、どうやって嘘を見破るのでしょう。騙されるのは、道に迷うのに似ています。なぜ道に迷うかというと、信頼に足る指標に基づかないからです。道を把握する時、止まっている目印を目安にします。これをランドマークといいます。道に迷う人は、止まっていない車を指標にしたり、どこにでもあるものを指標にしたりして、状況を固定化出来ないので迷うのです。騙される人は、これと同じことをしています。

では、動かないものは何でしょうか?それは客観的な指標です。動くものは何でしょうか?それは「人間」です。つまり、人間は信じてはいけません。犯罪を暴く時も、証言だけではなく物的証拠を設定するじゃないですか、あれと同じです。人間を信じず、客観的なデータを信じたり、科学的な常識を信じるのです。経済だったら、経済の基本を理解するのです。どんなに偉い先生でもですね。先生も人間なんです。人間は嘘をつく、つまり動いてしまうものなんです。だから、信じてはいけないのです。特に、利害関係のある人間は全く信じるに値しません。そうではなく、ちゃんと、その分野の知識で武装し、動かぬ証拠に基づいて現実を把握するのです。それがだまされないために必要な基本的な事です。

知識がなかったら、その分野について判断するのはやめ、人間に頼るのはうやめましょう。それがダマされない基本です。自分が判断できないことを他人に委ねることは、ダマされる可能性が高くなります。自分が理解できる範囲で行動することが結果的に騙されません。そのためには、たくさんの知識とデータの読み方を把握する必要があります。それが出来なかったら、そういうことは、ダマされる可能性を常に意識して、できるだけ避ける。まず、私は人の話は信じません。人の話の中にある証拠が妥当かどうか、検証し、信頼に足るものであるか、矛盾していないか、常に慎重に審査します。そういう一歩引いた姿勢によって、ダマされないのです。また、謙虚さも大切です。自分の知らないことはヤラない。わからないことはわからないと表明して知ったかぶりをしない。なぜ、無知を表明するかというと、自分は、知らないからヤラないと言えるからです。知ったかぶりをしていると、そう言う自分の知らない事をメンツのためにやってしまうのでダメなのです。

このように人間を信じず、証拠に基づいて考え、身の程をわきまえ、己の分を超えない姿勢を貫くことで、ダマされないのです。それを弁えなかったり、他人を安易に信じた時、人は騙されるのです。あと、これは、騙すという範疇には入らないのですが、善意のオススメがあります。人の善意に触れるのが嬉しいからといって、それが正しいとは限らないのです。善意と正しさは別です。他人が良いと思って進められても、自分にとって合いそうになかったらやめるべきです。善意と正しさは違います。善意があるからといって、それが自分にとって正しいとは限りません。

善意と正しさが違うことを示すために中学生の時のエピソードを紹介しましょう。私は運動オンチでした。(今でも運動オンチですが…)私には運動の才能がなかったので本来は、文系の部活に入るべきでした。しかし、当時の親友が体を鍛えるために陸上部に入ろうと進めてくれたので、私は親友の善意が嬉しくて陸上部に入りましたが、才能のない私が陸上部に入ってはいけませんでした。私のような人間は陸上部に入ってはいけなかったのは、運動生理学の本を読んで分かりました。私はハードゲイナーという性質の体であり、運動をすればするほど、筋肉がやせ細ってしまうのです。つまり、運動をするほど筋肉が痩せて、成果が出ない。陸上部に入った私は自尊心がとても傷つきました。努力してもダメなものはダメなんだと思い知らされたのです。友人は私を騙すつもりはなかったのです。善意で私に進めた。しかし、それは大きな間違いでした。それは私の自尊心を大きく傷つけ、自信を挫き、それ以降の人生をマイナス思考に陥らせる最悪の選択でした。

であるので、私は、善意と正しさは別物だと思っています。友達は、善意だったことは分かっているけど、私は、自分の意志でそれにNOと言わなければいけなかったのです。明らかに自分の状況に合わないことをやることが、どれだけリスクの大きなことか自分で判断しなければいけなかった。私の失敗は、自分がすべき判断を他人に委ねたことです。その私の甘さが最悪の選択をしてしまったのです。中学生の私は、どうすればよかったのか、友だちに勧められても「いいや、僕は運動は苦手だから科学部に行くよ」と言えば、それでよかったのです。彼は「ああ、そうか」と言ってくれたでしょう。必ずしも善意にYESと答える必要はないのです。NOといったところで、本当の友達ならば、認めてくれたでしょう。彼だったら、そう答えたでしょう。でも、私はそれを自分で判断せず、他人に委ねた。ダメな判断でした。そう言うダメな判断が間違いを生むのです。

人というのは、他人のことについて、大してあまりよく考えていないものです。親友でさえ、そうなのです。だから、善意だろうとなんだろうと、それが正しいかどうかは自分で判断する。しかもちゃんと知識や感性を働かせて、そう言う事をする。これが大原則です。この原則から外れると、騙されやすくなってしまうのです。私が中学生の頃には、運動生理学の本などというのはなかったですが、私は自分の感性を働かせて、無理が多い事はわかっていたはずなので、親友の言葉よりも自分の感性を優先するべきでした。私は人柄も多少は評価しますが、状況に無理があれば、避けるという判断を下します。善意があっても無理なことは無理なのです。善意は神でもなんでもなく、単なる人の意志にすぎない。それも大してろくに考えていないものであれば、無視して構わないものです。

私のこのダマされないための考え方は、ダマされないために運用して下さい、日常に運用すると、確実に友達が減ります。そう考えていても表に出すべきではありません。これは敵から自分を守る思想であり、友を作る思想とは違います。私は、親友の中にも思慮の浅さという敵が潜んでいる。その敵から自分を守る術を述べているのであって、親友を敵にしろとまでは言いません。信じるべきは信じ、疑うべきは疑えということなのです。そして、それは自分で考えろということです。私の中学生の時のミスは、無理なことが善意という仮面をかぶってやってきた時に、仮面である善意の方を信じてしまったことです。物事は実態に沿った形で判断しないといけないのです。実態を見るために、仮面を無視し、疑ったり、客観的になる。それが騙されない方法です。そう言う鉄則を守らないと、人は失敗という罰を食らうのです。世の中に間違いはバイキンのように沢山ある。その中で生きるためには、そのバイキンを寄せ付ける甘さや杜撰さを排除することです。そう言う意味では、自分の甘さこそが最大の敵かもしれません。