SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

理解不能なものに支配される 「心の明るさを取り戻す方法」

思えば、自分は理解不能なものに支配されてきた。なぜ、ワケの分からないモノに支配されてしまうのかというと、ワケがわからないから、それが何であるか分からず、恐れることによって従うというパターンなのだ。では、具体的に見るとこうである。

義姉のヒガミに支配される。

  • 私は自分が頑張る時、少しの成果でも自分を褒めようとした。というのは、そうすることで自尊心が補完され、ポジティブになれて頑張れるからである。しかし、義姉は、僅かな成果は僅かであるから、そのような評価の仕方は正しくないと言い出した。事実ではあるものの、そういうやり方はうまくいかないと思っていた。しかし、それに抗議する私はいつも義祖母に黙らされた。私が分からなかったのは、その義姉の人の自尊心を破壊する何の益もない主張と、それを養護する義理の祖母であった。私は義姉と義祖母の両方が理解できなかった。なぜ、大の大人がそんな無益なことを考えてしまうのかよく分からず、不気味で怖かったので子供の頃の私はそれに従った。今にして思えば、それは、義姉については、彼女は基本的に自尊心が低く、他人を羨むあまり、妬み、ヒガミが多い人だった。要するに自分がちっぽけな人間だということが内心わかっており、それより上に行こうとする発想を邪魔することによって自分の自尊心を補完していたのである。私は、この全く利益のない愚行を行ってしまう人間の心理が理解できず、何が何だか分からない故に、とにかく従うしかない、ばあちゃんもそう言っているし…という感じで従ってしまった。そうやって私も自尊心の低い人間になり、何事にも自身が持てず、頑張ることも出来ず、うまくいかなかった。大人になって、やっと、その卑小な発想が理解できるようになり、「何だそういうことか」ということで、切り捨てることが出来るようになった。しかし、未だに他人を不幸にする為に僻むという、みっともない行為が何故できるのかは謎だ。多分、自分のやっていることが見窄らしいことに気づいていないのだろう。私は見えすぎていて分からなかった。人を僻むという超かっこ悪いことを何故やるのか、誰でも人を羨むことはあっても、それを表に出すことは恥ずかしいと思っていた私には、どうして、それが出来るのか分からなかった。だが、よくよく考えてみると義姉は、いろいろ、物事が見えていない人だったので、多分、自分のしていることが見えておらなかった。だから、そういう醜いことをしてしまったのだ。思えば哀れな人だが、同情はしない。ただ、哀れで愚かな人としか自分は見ない。私が従ったのは、意味がわからなくて、怖かったからである。何か真理があるのかと、考えたが考えても考えても、よくわからない。それは当たり前なのだ。物事をプラスにしようと考えている私が、マイナスにしようとしている発想が理解できないのは、要するに目的が違っていることに気づかなかったのだ。悪意は存在しない、善意であるにもかかわらず、心理的には、他人を貶める方向に発想が向かうというメカニズムが全く理解できなかった。それを説明すると、意識的には善意であっても、無意識的には他人を羨み、妬み、貶めようとする人間の表裏の心理が見抜けなかった。私は羨まれるような能力を持っていなかったし、妬まれるような素晴らしい成果もなかった。だからこそ、私が羨まれ、妬まれる理由がわからなかった。だが、彼女が私を羨んだのは、自分にはないポジティブな発想を私がしていたからである。彼女は私の心の明るさを羨んだのだ。そして、明るいものを見ると眩しいので、暗くしようとした。それが義姉の発想だった。思えば考え方が暗い人だった。自分が正しいとする視野でしか物事を正当化できず、その視野も大抵一つだけで、複数ないという狭さ、度量が貧しい人だった。彼女が私を羨んだのは、私の明るい発想だった。素晴らしい能力も成果もなかったけど、発想は明るかった。その明るさが他人に妬まれ、傷つけられた原因だった。私は自分の考え方が明るいとは思っておらず、普通だと思っていので、それが分からなかったが、私より心が暗い人から見れば、それは明るく妬まれることなのだと、やっと分かった。だから、私は悲観的な発想に支配される時、私は本来の明るい発想で自分を励ますことにした。あの家から出た私が、自分を励ましても、もう争いにならない。私は争いが嫌だったので、悲観的に考えるようになってしまっていたのだ。でも今は、「どうして、ああ他人を僻むのか理解できない」と考えることが出来るようになり、明るく自分を持って行くことが出来るようにした。私の中の悲観的な思想は義姉の発想で、本来の私の発想ではなかったのだ。ただ、あの家にいると、自分を明るくしようとすると批判されたり、罰せられるので、意味もわからず、仕方なくそうしていただけなのだ。だから、「どうしてああ、僻むのか」と心のなかで言うことで、自分と義姉の発想を分離し、本来の私の明るさを取り戻すことが出来るのだ。
  • 人は理解できないものを恐れ、従ってしまうことがあります。その理解できないものに強制力があると尚更です。しかし、それを理解してしまえば、恐れることはなくなり、自分と他人の発想を分離でき、また権力による強制力は、その権力者から離れることで、その影響を受けなくなります。私の子供の頃は、まず、理解出来ない発想の上に強制力があったので、他者と自己の発想を分離しようとしても、それをワケの分からない意味不明の理屈で否定され、その上、それに文句をいうと、お前が悪い、黙れということになって、言いたいことが言えず従わざる負えないというものでした。それ故、私は自分とは別の他人の意思を自分の行動様式に組み込まなければ争いを避ける事は出来なかった。しかし、これを続けていく内に、そうやって意図的に組み込んだことすらも忘れてしまって、自分の行動様式にその悲観的な考え方が癒着してしまい、あの家から出て、その影響下から離れた後でも、悲観的な発想に縛られ続けました。しかし、それも、他人の僻みっぽさ、見窄らしさ、考え方の狭さを思い起こせば、何がどういうことなのか分かり、私とは考え方が違うという事が意識できた時、私は他人の発想と自分の発想を分離できるようになりました。今では、悲観的になりそうになると「どうして、ああ、僻みっぽいのか」と義姉を思い出すことで、その見窄らしさ、愚かさを思い出す度に「違うな、これは自分の考え方じゃない」とイメージすることができ、自分を取り戻し明るく考えることができるようになりました。子供の頃の私のことを思うと、かわいそうに思います。酷い家だったと後から考えると思います。自分が自分ではいられない家でした。