SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

マルクスと集団的自衛権

武田先生の話が面白かったので紹介する。歴史的に社会体制を変革したのは、主に軍事
、つまり暴力だった。それに対して文化的に社会体制を変革したのは、宗教関係の人を除けば、マルクスだったのではないかという指摘には、なるほどと思った。

そして、軍事的、つまり暴力によって相手に言う事を聞かせるというのは、ライオンの世界の話であって、文化でいう事を聞かせるのが人間の世界というべきものという指摘は、確かにと思った。文化的に(書によって)社会体制を変革したという意味ではたしかにマルクスは偉大だった。

偉大であるがゆえに、それに人がひざまずき、従うという意味では偉大だった。マルクスは暴力を使わず、書によって社会を変革した。宗教関係をのぞけば、たしかにマルクスぐらいしかいないのだから、偉大と言わざる負えない。神様の力を借りないで、人間の力のみでやったのだから。

なぜ、そういう過去の偉業について語ったのかというと、それは、安倍政権集団的自衛権の話とつながってくる。つまり、暴力によって人を従わせるという論理は、ライオンの論理であり、人間の論理ではない。そんなこと言ったって、社会は暴力によって統治されるものだろと言われると、確かに歴史はそうなのだが、何故、あえて、そこを言うのかというと、科学技術の進歩によって、一方が勝利し、一方が負けるという戦争の前提が崩れてしまっているからだ。どういうことかというと、ライオン同士の戦いで世界は破滅しないが、核を持つ人類同士が戦うと世界が破滅しかねないからだ。つまり、勝利というものが存在せず、絶滅という危険がある。そうなると、戦争自体が人類にとって敵となる。だから、マルクスのように書や言論によって、暴力を使わず社会体制を変革しないと、人類自体がいずれ戦争自体に敗北し滅びるという事だ。つまり、勝敗のパラダイムが人間同士から、戦争対人間に変わっているのだ。それは核兵器生物兵器などの絶滅兵器の登場によって既に半世紀ほど前から変わっているのである。

このパラダイムの転換に気づかないと、人類全体が滅びることになりかねない。そんな大げさなと思う人もいると思うが、私は戦争を体験した義父の「戦争は勝てばなんでもあり」という言葉がとても引っかかってしょうがないのだ。つまり、勝つためには核兵器でも生物兵器でも使う可能性がある。危機管理の基本は最悪の事態に備えるのがセオリーである。この原則を踏まえて、最善の選択をするというのが基本である。しかし、主戦論を唱える人間の多くは、矛盾した論理で自らの主張を正当化しているのだ。というのは、まず、軍事力の必要性を訴える理由に「最悪の場合に備える」という危機管理の基本原則を用いながら、同時に全面戦争のリスクについては、都合よく「最悪の事態」を想定しないで、軍拡路線を肯定するという矛盾がある。こういう矛盾した論理を俗に「ご都合主義」という。何が問題かというと、コンピュータープログラムで言えば、バグのような話で、その言質に従って行動すると、その論理の穴から矛盾した答えが生じ、その結果は、人類絶滅の可能性が生じてくるのである。つまり、頭脳が進歩した人間が未だに古いライオンの思想を肯定し続けることは、人類そのものを絶滅の危機に陥れかねないのだ。

そういう意味で、人類史上、神様の力を借りず、人間の文化の力によって社会を変革したマルクスは偉大だったという事なのだ。今、それが求められているのは、兵器が進歩して戦争のパラダイムが変わってしまったからだ。矛盾なく最悪の想定をするならば、軍拡路線は危険であり、ましてや核兵器の保有は、人類そのものを敗北させることに繋がるリスクがある。よって、戦争ではなく、文化の力によって社会を変革するべきであって、それは外交においても同様である。

故に今、安倍政権が行っている集団的自衛権の行使という論理は、ライオンの理屈であって、核兵器を持つ人類の理屈ではないのだ。核兵器を持った人類が未だにライオンの行動様式をしていては、いずれ、全面戦争に発展し滅びてしまう。故にこの旧態依然とした発想から脱却しなければいけない。その意味において憲法9条の論理こそが、人間の理屈であり、安倍政権集団的自衛権の行使という理屈は、ライオンの理屈である。今、何が生じているのかというと、集団的自衛権というライオンの理屈と、憲法9条という人間の理屈の戦いである。この戦いに勝利しないと、いずれは人類が滅びる結果となる。そういう意味で、本当に危機管理のことを考えるのであれば、憲法9条の発想を広める以外に、人類が救われる道はないのである。そうでないと、人類そのものが戦争自体に負けて滅びてしまう。
 

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