SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

仏教からムハンマドの意思が理解できる

イスラム教の解釈について、私はムハンマドの実際の行動から、その意志を汲み取る事が正しいのではないかと思い、史実を眺めてみると…

引用:Wikipedia:イスラーム教徒による宗教的迫害

  • イスラームの開祖であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは寛容で慈悲深い人間であった。ただし、例外として自国民が多数襲撃される等の深刻な被害にあった場合や、多大なる損害をこうむった場合に自衛のために戦うことは行っていた。しかしメッカの多神教徒に対しては、10年以上に渡って彼らから命を狙われ迫害を受け続け、国をも追われる原因となったにも拘らず、勝利したときにはメッカの街に無血開城多神教徒を全くのおとがめなしで許したという歴史上例を見ない事件がある。

預言者ムハンマドも同胞が傷つけられれば、それに対して戦ったものの、その遺言では、異教徒を手厚く保護したことからも分かるように、本来のイスラム教は異教徒に対して寛容な宗教であることが分かる。この寛容なムハンマドに対して対照的なのが、ISISなどのイスラム原理主義を標榜する集団である。彼らの行動を仏教からみると、慢心の「慢」で表現できる。仏教では、慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢という7つの煩悩の種類があり、これらの慢心を持つものは、他と比べて自らを過剰に評価して自我に捉われ固執し、福徳や悟りを具えていないのにそれらを修得していると思い込む煩悩をいう。これらを総称して「我慢」と呼び、我が身をのみ頼みて人を侮るような心を指すという。こういった自我に執着する姿勢を仏教では「我執」と読んでいる。我執とは

Wikipedia:我執

  • 自分に対する執着で、仏教ではその克服が重要な課題とされる。

イスラム原理主義者というのは、自分のイスラムの解釈に固執している点から見て、この仏教でいう我執に相当するのではないかと思う。要するに自分こそはムハンマドの意思を継いでいるという自画自賛である。というのは、ムハンマドは、後藤さんのような戦闘員でもない人間を殺しただろうか?

ムハンマドは、同胞を殺めていない後藤さんを殺すことはしなかっただろう。そこから考えて、彼等はムハンマドの意思を曲解しているのに、自分がムハンマドに意思を継いでいると主張する。つまり、仏教の我執における「福徳や悟りを具えていないのにそれらを修得していると思い込む煩悩」に侵されているといえる。つまり、仏教の我執という視点から見れば、「異教徒に寛容であれ」というムハンマドの意思もジハードの意味も適切に把握できるのだ。ジハードとは「自らとの戦い」を意味する。この戦いは、我執との戦いと言い換えることも出来る。つまり、己が悟りを得たと慢心することなく、他者に対して寛容であること、どれほど悔しいことがあったとしても、我執にとらわれて、イスラムの教えを、暴力を正当化する方便に利用しないという、自らの怒りとの戦いこそ、真のジハードといえるのではないだろうか?

仏教の我執という視点で見ると、イスラム教の本質がよく見えるように思えるのだ。なぜ、そう自分が思ったのかというと、私は養子として子供時代を育ち、自分が家族と思っていた人達とはDNAが違っていた。この家の人達は頭はいいし、体も丈夫な人が多く、頭が凡人で、体の弱い私の立場が、彼等には分からなかった。つまり、優秀な頭脳と肉体を持っている彼等のような人間は「出来るから俺はエラい」という我執に縛られる。この我執に苦しめられたのが弱い体の私。つまり、人が我執に囚われると、相手の立場や状況がわからなくなるのだ。特に世間的に能力が高い人ほど、自分が「出来る」事を「正しい」事だと勘違いしやすい。

要するに「力」を持っていると、それが「正義」だと思い込みやすい。そういう己の力に自惚れた状態を、我執と見ることが出来る。イスラム原理主義者はムハンマドの意思を理解していると思っているようだが、私には我執に囚われた哀れな人達にしか見えない。彼等は、同胞を傷つけてすらいない人達をテロリズムで殺している段階で、イスラムの教えに反している。それをイスラムの教えと云うのは、思いあがりも甚だしいのであり、彼等は自らとの戦い、つまり、ジハードに負けた敗者である。真にイスラムの教えを標榜するのならば、テロリズムではなく、教育や医療など、世の中のためになることを率先して行って社会に貢献するのが真のジハードである。

私は、欧米のやる戦争は酷いと思う。だが、それに怒って、その怒りの虜となり、己の怒りに支配される事はイスラムの教えではない。それは我執であって己の怒りへの執着にすぎない、その怒りの方便として神の教えを悪用しているにすぎないのだ。そのことに気づく為の自分との戦いこそ、真のジハードである。ムハンマドは自分を虐げるものに手を差し伸べた。それは、我執に縛られない優れた精神のなせる技であろう。彼の残した教えを悪用すのではなく、彼の行いからその真の教えを理解するべきである。それを理解するのに仏教の我執についての説明が役に立つと思う。