SKY NOTE

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我慢が美徳だと思う人へ

我慢は美徳でもなんでもありません。我慢というのは、仏教用語で煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のことをいいます。

 Wikipedia:我慢(仏教用語
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%85%A2

  • 四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。

我慢とは慢心の一種です。平たく言うと、これほど自分が耐えているから、自分はなんてエラいんだと慢心していることを、我慢というのです。私は、よく個人の権利について述べますが、子供時代は我慢ばかりしている大きな声が出せない子供でした。ただ、自分が偉いとは思いませんでした。仕方なく我慢させられていると思ったものです。

私が、我慢というものが嫌いになったのは、我慢をしすぎて体を壊し、今から思えば慢性疲労症候群のような症状になってしまったことです。ですが、その苦しみに家族の誰もが気付かず、そして、疲れてグッタリとしている私を我慢の足りない怠け者として扱ったことでした。私はこう思いました。人が苦しんでいるのを美徳とする価値観とは何なのか、極端に他人に対して思いやりのない人間なだけではないのか!と私は心の底から怒りました。

大人になってから、仏教用語としての我慢という言葉を見てみると、確かにそのとおりです。自分が耐えられるから偉いと思って、他人を見下している。自分の強さに驕り高ぶり慢心をしている家族を思い起こし、仏教に書かれていることは正しい。我慢は、慢心の1つ、自己陶酔のようなもの。よくよく考えてみてください、人間には立場が違う人間がいます。例えば体の丈夫な人間とそうでない人間、自分が丈夫な人間だからといって、体の弱い人を忍耐が足りない怠け者として蔑んでいいかといえば、それはおかしなことです。たまたま丈夫な体に生まれただけで他人を蔑んでいいならば、男女差別など、あらゆる生まれながらの不当な差別が正当化できてしまいます。

つまり、ココで分かるように我慢なんてものは慢心なのです。自分の優れた所に執着して他人を顧みない慢心、一種のナルシストです。ですが、単なるナルシストではなく、これが発展すると差別主義者に豹変します。自己満足の世界に浸って、他人を蔑む、そういうろくでもない思想が我慢なのです。ですから、美徳でもなんでもない。ある種の自己優越性をもったエゴイストなのです。こういう優越感をもった人間が権力を握ると自己の優越感と権力が一体化して、権威主義者になる。そして、選民意識の高い人間になる。最終的には他者を差別するような人間になる。

そうなると、何が起こるでしょうか?歴史を見れば分かります。そういう選民意識を利用した独裁者ヒトラーを思い出せば分かる。「アーリア人こそ世界で一番優れた人民だ」と主張するヒトラーにしたがって、何が起きたかというと、独裁政治による他民族の虐殺でした。ユダヤ人の教典、タルムードにも、それは見て取れます。本来のユダヤ教は、タルムードとは真逆の事が書かれていますが、タルムードは非常に選民意識の高い教えが書かれています。

差別され苦しみに耐え抜いてきた自分たちユダヤ人こそ、優れた民族なのだと自己憐憫に浸り、他民族をゴイムと呼び、家畜や何かのように見下している。仏教で言えば、自己への慢心により驕り高ぶっていて、悟りが開けない存在となります。タルムードは仏教から見れば、悟りが開けない存在そのものと言っていいでしょう。私は仏教が正しいと思うし、真のユダヤ教は、このような邪教とは違う。

タルムードを信じた者達が今、世界で何をしているか、それは戦争ビジネスです。自分たち以外は家畜同然なのですから、煮ようが焼こうがどうでもいいわけです。要するに人でなしです。我慢が自己憐憫となり、それが優越感となって、それが差別主義へと発展していくのは、歴史を見れば明らかです。ですから、我慢は美徳ではなく悪徳なのです。それは、彼らが行っていることからみて明らかです。