SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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成果を望むほど結果は遠のく

私の経験則から言って、成果を望めば望むほど、結果が遠のく。というのは、努力が出来なくなるのだ。これは、単純に考えれば簡単にわかることで、人の目に見えるような成果をあげるためには、時間と労力がそれなりにかかる。その長い間、努力をし続ける時に、客観的な評価では、常にダメな結果というものを甘受せねばならない。成果を望めば望むほど、この精神的重圧が大きくなり、結果として努力そのものが出来なくなる。

では、どのように考えたほうがいいのかというと、成果を2つに分けるのである。1つは他人が評価する大きな成果、2つ目は自分が評価する小さな成果である。なぜ、この小さな成果が必要なのかというと、大きな成果を生み出すための努力をするためである。この評価は、単に小さいだけでなく質的にも異なる。

 大きな成果:外面的な成果(他者が評価する大きい成果)
 小さな成果:内面的な成果(努力をするために必要な評価)

小さな成果は、内面的な評価である。なぜ、内面的な評価が必要かというと、客観的に見れば、他人が認める成果というのをすぐに出せる人間は、一握りしかいない。たいていの凡人は、小さな努力を積み上げてやっと大きな成果が得られる。しかし、小さな努力というのは、その小ささ故に、その努力で進んだ成果も見えにくい。しかし、それを積み上げていかなければ大きな成果は望めないのだ。ということは、努力そのものを評価する内面的な評価基準がないと続けれられない。

これは、私の嫌いだった義姉が、この逆のことをしていたからよく分かる。彼女は客観的に私を無能といい、確かにそのとおりであったため、私は反論できなかった。だが、彼女がそう言う事を言うたびに私は、何もする気が起きなくなった。要するに自分に自信がまるでなくなってしまったからである。子供の頃の私は、彼女のそう言う事を言われるたびに元気がなくなり、何もする気が起きなくなる自分を見て「あの人、何も言わないでほしいな」と思っていた。気力が萎えるので私が「黙っていてくれ!」と怒ると「事実を言っているのに口答えするのは言い訳だ」と言って切り返されたが、確かに事実なので、言い訳と言われれば、確かにそうかもしれないのだが、彼女が口を開く度に元気がなくなり自信がなくなるだけなので、こちらは、気力も精神力も失ってしまうので、止めて欲しいと思っていた。今から思えば、人の気力を奪う大迷惑な人だった。その大迷惑を善意でやっているから質が悪い。

今にして思えば義姉のような人を見て、私は反面教師とした。私は、人を頑張らせるときに何をするか、客観的な評価もするが、同時に元気づける言葉も欠かさなかった。結果が出ないで苦しいのは、よくわかるので、それを責める事はしなかった。それは、そう言う事を言われて苦しかった自分を見て、自然とそう言う事をするように成っていた。そして、頑張った人には、その頑張ったこと自体を褒め称えた。なぜなら千里の道も一歩からであり、道程は長い。そして、その長さにめげるような事を他人には言うまいと自然と思うようになった。

ここで重要なのは、内面的な評価の重要性である。つまり、直接的な成果ではなく、成果を生み出す精神性を大事にする内面的な評価である。成果を生み出す精神性とは、努力を続ける姿勢、向上しようとする姿勢である。また、そういう状況に至らず、気持ちが沈んでいる人には、頑張らせるために、道程が長いことを正直にいい、その上で、元気づける事を言う。誠実で真摯なことは大切だ。まず、精神性を大事にし、自尊心を高め、努力をしたら褒め称えるという順番で、評価をしていく、そして、努力をした結果、何か光るようなものが出てきたら、そこを褒める。そうやって、自尊心を徐々に高めていく、それが私が義姉を反面教師にして学んだこと。

現在の日本は、政治的に厳しい、選挙でダメな政治家を選んでしまい、非常にマズイ政治が行われている。それは、多くの市民が沈黙しているからなのだが、それは、彼等が客観的だからである。客観的であるがゆえに、目に見える成果を望み、そして、それが現実に裏切られて絶望し、無気力になって、政治について考えるのも嫌になってしまっている。ある意味、子供時代の私と同じだ。自尊心がボロボロなのだ。問題を長期的に一つ一つ解決していく必要がある。そのためには、目に見える外面性よりも内面的な評価が必要なのだ。成果が出なくても、成果を出すには何をしたらいいか、考え続けること自体を評価をする。そういう精神性が必要なのだ。これは、私は一人遊びから学んだ。自分で工夫し、考え、改良し、実験する。この繰り返しの中に真理が現れる瞬間がある。それをひたすら待つのには、それを続けることが大事なのだ。私は遊びから、それを学んだ。だから、真理が現れるまで考え続けること、それそのものが評価の対象になる。それがなければ、真理という結果が得られない事が分かっているから。

私はデモが何度も失敗するのを見ても、何度も何度も足を運び、それについて、何故、失敗するのか考え続けた。成功するまで考え続けること、それが大事だと分かっているからである。目に見える結果がなくても、それは評価に値する。なぜなら、それを続けないとわからないからだ。考え続け、そして、やり続けることが大切なのだ。そういう内面的な評価が継続に結びつき、最終的には成功することを分かっているからだ。しかし、そこに目に見える成果を臨もうとすると、手が止まってしまうのは、そう言う精神性を現実が否定するかのように見えるからである。だから、成果を望めば望むほど、結果を出すための努力ができなくなる。努力は、とても精神的なものなのだ。その精神を現実で破壊することは、成果も生み出せない。結果というのは、精神の卵から生まれるニワトリなのだ。だから、内面的な成果を評価基準に据えて、精神性を大事にすることが、努力を継続させ、最終的には現実を動かすことになる。それまでは、待たなねばならない。結果が出るまで待つには、ある種の直感というか予感のようなものがあるから出来る。そういう精神性を大事にすることで、状況は変わっていく。

ただし、惰性は否定する。向上心をもった継続が必要なのだ。そうであるかぎり、最終的には成功する。そして、それを支える正しい精神性を高く評価し、それが目に見える成果がなくとも、評価を惜しまない事、それが私が知っていることなのだ。そんな私でも、現実に挫けそうになるが、それでも、そうではない、そうではない、大切なのは、内面的な評価、それこそが結果を生み出す。努力をしなければ大業は成せない。簡単ではない、時間も労力もかかる。だが、そういう労を惜しまない精神性こそ評価しなければいけない。そうでなければ成功など不可能なのだから。