SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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私には、まだできることがある

何かをやって、手が止まってしまう事がある。それは、やっていく内にやるべきことが沢山あることに気づき、それを考えると「自分には出来ない」と諦めてしまう自分がいて、それが手が止まる原因だった。

困難なことが重なると自分の中でハードルを上げてしまい、そのハードルを超えられないと絶望する自分がそうさせる。自分の生きてきた中で振り返ってみると、運動は才能がなくてダメだった。勉強は嫌いであったが一応真面目にやった。だが嫌いであったために能率は上がらなかった。また、ほぼ毎日、胃弱なのに食事が油っこくて腹痛だった。大人になってから自分で調理し、自分で食器を洗うと腹痛はなくなった。

運動は才能がなかったから仕方がないにしても、勉強のように努力でなんとかなるものについては、才能ではなく、勉強を強制され意欲がマイナスである点と、ほぼ毎日腹痛というコンデションが悪さが災いしていたと思う。そうこうしている内に失敗体験が積み上がっていき、私は難しいことがあると「出来ない」と思い込むようになった。極めて自然にそう思うようになった。意識できないほどに。

私は賞というものをとったことがない、普通、小学校から高校に至るまでの間に何らかの大なり小なり、賞というものを取るのが普通である。要するに何をやるにも、やる気が無いのである。困難なことがあれば、出来ないと諦めてしまう。本当は努力をすれば出来たことも、早々に諦める。だから、他人を追い抜けない。よって賞のようなものとは無縁というわけだ。

意欲がマイナスなのは、単に私の性格というよりも、ほぼ毎日のように腹痛で何をするのにもダルくて辛かったからだと思う。今思えば消化不良で、血行が悪かったのだろう。だから、何をしてもすぐ疲れてしまい、困難なことなど、体力と気力を必要とする事が生じると、すぐ疲れるからダメだ。出来ない、どうせ負けると思って、やっても無駄だと諦めてしまう。

勝つことを目標とすれば、どうしてもコンデションが悪いと負けると思ってしまう。元気な他人の全力と、元気でない自分を比べれば、どうしても、勝てないと思ってしまう。そして、それ以上を望まなくなる。そう思ったのは、このYouTubeコミックの一コマを見たからだった。

努力する余地があるのに、自分に不利な条件を言い訳にして逃げている事を指摘されたようで辛かったが、正論だと思った。大人になってからの私は、食事の問題は自分で作ることで解決した。だから、今は腹痛に悩まされることはない。特に最近、ルイボスティを飲み始めてからは、腹痛になることは殆どなくなった。体がダルイ時には、黒酢を飲めば、完全ではないものの、ある程度は軽くなる。だから、体の方のコンデションの問題は、体力が少ないことを除けば、大体、解決できた。努力を適切に行えば結果が出る状況になっているはずなのだ。今まで結果が出なかったのは、努力が足りないこともさりながら、世の中の評価軸が「完成品」に向いているからだ。最近、ハードディスクを買って、しょっぱなからデータ破損で返品、電波時計を買ったら電波が受信できなくて時間補正できないなど、不良品と思われる症状が相次いで、たとえ、どんなに性能が良くても、不良品じゃ意味が無いと思った。私は、そういう意味で不良品だった。賞など取れるはずもないし、ましてや他人に勝てるはずもない。

私は健康で元気な人に比べて、ワンステップ、余計にやることが必要だったが、それだって、きちんとやればクリアできることであり、実際、その部分は大人になってからクリアしている。後は、精神面の課題ということで、ヘレン・ケラーの言葉をこの漫画で読んだ時には、至言だと思った。

  • ヘレン・ケラー
  • 「自分でこんな人間と思ってしまえば、それだけの人間にしかなれない」

私は自分で自分を見下していた。だが、ヘレン・ケラーのような自分よりもはるかに、不利な条件下で成果を上げた人の言葉を聞いて、私は下から突き上げられる思いがした。私には、まだできることがあると思えるようになった。
 

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