SKY NOTE

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表現の自由と宗教

フランスの風刺雑誌、シャルリーエブドの襲撃殺人事件を見て、表現の自由と宗教について考えさせられた。そこで宗教と表現の自由にいて整理しておく必要があると思い、ここに書き記すことにする。

まず、自分の考え方の柱を定義しておく、基本的に表現の自由は守られるべきであるが、その正当性について、自分としての見解を述べてみる。これを元に整理をする。

なぜ表現の自由が重要かを説明するために、私が親戚の中学生と話した時のエピソードを元に説明したい。中学生の彼は「勝ったものがエラい」という考え方だった。私はそれについて当時は「勝ち方には多様性があり、様々な勝ち方がある」と述べるにとどまっていたが、これについてより的確な説明をすると、基本的に「勝った者がエラい」という考え方は、弱肉強食の論理である。これは、ミクロ的には正当性があるが、マクロ的に見ると必ずしも「勝っているとはいえない」のである。それは、恐竜と哺乳類を見ると分かる。

恐竜は体も大きく、力も強く、当時は最強であり、まさに弱肉強食を代表する種族だったが、地球に隕石が衝突した瞬間、彼等の優位は消滅し、体も小さく力も弱かった哺乳類が生き残った。その哺乳類の末裔が私達(動物も含む)である。環境が変化するというマクロ的視点から見ると弱肉強食は必ずしも勝者を示すものとは言えない。環境に適応し、生き残る思想、適者生存こそ、真の勝者、つまり、生き残る術なのである。ここでいえば「最もエラい」のである。

この点から見て、表現の自由について述べるとするならば、その自由を認めることによって、様々な思想、多様な考え方を認め、受容できることが、結果としては、生き残る術として妥当であることが分かる。つまり、1つのスタンダードではなく、多様な思想を受容できてこそ、表現の自由のメリットが活かされる。この考え方をベースに説明したい。

1.勇気と無謀は違う

  • 歴史の先生曰く(今から20年以上前、911同時多発テロよりずっと前である)
  • 「今ココで、コーランを破ったり汚したりしたら、あなたは殺されるかもしれない」
  • 「それくらい強烈な宗教だってことを覚えておきなさい」
  • これを先生が言うと、教室はどよめいたが、つまり、それだけ強烈な宗教なのである。イスラム教を信じていない者にとっては、コーランは、ただの本にすぎないが、彼等にとっては命にも等しく重要なものなのである。また、イスラム教では、アッラーの神を唯一神と定め、他の神を崇めてはならないとあり、そのために、あらゆる偶像を拝んでも作ってもならないとある、偶像には絵も含まれる。そこで問題となるのは、シャルリーエブド紙が書いた内容は、預言者ムハンマドを絵に書いて偶像化した上に、それを茶化すような事を書いてしまった段階で、イスラム教徒にとって、それは許すべからざるものであり、反発を買うことは必至の内容である。ある意味、無謀と言わざる負えない。殺されるのを覚悟しないといけないような内容だ。言ってみれば、火薬庫の中でタバコを吸う様な無謀な行為である。相手の一番大切にしているものを足様に扱うことが自由と言えるのか考えてみると、例えば、男女の差について考えてみる。男のスタンダードな考え方を女性に押し付けると、どうなるか、手痛いしっぺ返しを食らうことだろう。そういう価値観の相違から考慮すると、シャルリーエブド紙のやったことは、勇気を通り越して無謀であったのではないかと思う。つまり、シャルリーエブド紙のミスはお互いの違いを度外視して表現をしたことである。しかも、彼らにとって譲れない一線を越えた表現ともいえるべき、挑発的な内容であった。だからといって、表現の自由を規制していいという論理にはならない。なぜなら、そういった規制は、それがたとえ最初はわずかであっても、一度作られれば、徐々に広げられて、独裁政権を生み出すという別の問題が生じるからだ。そこで、自由を認めつつ、どのようにこのような問題を整理するべきかを次の項目で書いてみたい。

2.自由は相互に違いを尊重することで初めて成立する

  • そこで重要なのは、多様な価値観を尊重することが大事なのである。社会には様々な違う考え方をもった人々がいる。それぞれが自分の信じる理屈を他人に当てはめてしまうと、そこで争いが生じ、結果的に自由な社会とはいえなくなる。つまり、お互いを尊重する思想がなければ実質的な自由は成立しえない。シャルリーエブド紙は、表現の自由の名の元にイスラム教徒を挑発するような内容の漫画を書いた。だが、多くの聖典がそうであるように、宗教の聖典どおりに生きていれば、テロは起こりえない。大抵の宗教の聖典は、殺人を固く禁じている。そう考えれば、問題はイスラム教というよりも、それを誤って解釈する事にある。批判するべきは、そこであって、ムハンマド(宗教)ではなかった。そして、イスラム教徒の多いフランスでは、彼等の思想で、どうしても譲れない部分については、それに配慮することも自由の内に入ると私は思う。なぜならば、自由とは互いの自由を尊重してこそ成立するものだから。そうしないと、今回のような争いが生じ、政治家達に言論規制を行う口実を与え、リアルに自由がなくなってしまう。故に互いの違いを尊重し、調和を保つことも自由の内に入るのではないかと思う。そうしないと、争いや規制という不自由が私達にのしかかってくるからだ。

まとめ

  • シャルリーエブド紙は、私が見る所、2つにミスを犯したと思う。1つは、
  • 1.現実的に見て、無謀な行為を勇気と勘違いしたこと
  • 2.自由には相手の自由を尊重することも含まれ、それが出来ないと、争いが生じるか、それを防ぐための規制が生じて、結果的に不自由になる事
  • これらを理解せず行動した結果、社会に不満を持ち、血気にはやる若者を挑発し、殺人に至らせたと私は推測する。社会に不満を持ち、血気にはやる若者というのは、何時の時代にもいるものであり、それらの存在を否定することは不可能である。故にそういうものを挑発して暴挙に至らせる事は、勇気とはいえず無謀である。次に、そういう暴挙の結果、何が生じるか、社会に軋轢が生じたり、自由を規制しようとする政治的な動きにも発展しかねない、故に、自由を維持するためには、自制もまた必要である。重要なのは、国や行政が規制するのではなく、市民自らが、相手の正当な意思を尊重するという意識を持って自発的に行動することである。これはかなり難しいが、そうしないと政治家共に独裁権を与えるような言論統制法案を提出させる口実を作ってしまうため、市民自らが自省することが大切である。シャルリーエブド紙は、その自省が足りなかったと私は思う。自由には他者の自由を尊重するための自省も必要である。道路で、お互いが自由に歩くためには、お互いに配慮し、よけながら歩くことが結果的に最も自由に歩けるのである。だが、その自省は決して他人に強制されるものであってはならない、もし、それが強制できてしまうと、自由は失われる。そこで歴史の先生の言葉とヴォルテールの言葉で最後を締めくくりたい。
  • 言う側の心構え
  • 「社会にとって、パーフェクトフリーは存在し得ない。なぜなら、自分と他人は違うから、違う者同士が互いの自由を主張すると、争いになって自由でなくなる。人がふたり以上いたら、それはもう社会なのだ」
  • また、もう一つ
  • 反対意見を言う権利が認められないと、民主主義が成立しない。しかし、同時に言ったことに伴う代償については自分で支払わなくてはならないというのが、現実である。言っただけで代償を支払わせるという価値観が広まると自由は失われる。だが、それを自由だと言って、他者の尊厳を否定するようなことを言えば、反発を買ったり、その反発を防ぐ名目で規制が生じて、これもまた自由でなくなる。ヴォルテール自身も歯に衣着せぬ自由な発言が元で大貴族と衝突して牢獄に入れられている。私は衝突せずに批判する道を歩むこともまた必要だと思う。コーランの教えでは殺人は禁止している。故にムハンマドの絵を書くのではなく、コーランの言葉と、テロリストの行動の矛盾を風刺したほうが良かったと思う。その方が批判として適切だったと思う。自由を維持するためには、自由と自省の間を行き来する中道の発想も必要だと思う。