SKY NOTE

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無責任と権威主義は仲がいい

無責任と権威主義は仲がいい
私は、これを自分のいた家から学んだ。私の家は、権威主義的な家で、祖母を頂点とする家、暴力もなく平穏な家だが、同時に祖母の権威によって無理やり作られた秩序でしかなく、公平な裁きではなく、祖母の事なかれ主義、つまり、祖母の主観によって形成された秩序によって穏やかな家というのが実態だった。

祖母は、批判や強い主張を嫌い、それを黙らせていた。当然、私のような人間は黙らされてばかりだ。不満なのは、その黙らされる理由が家を騒がせたからというものであり、何が悪いのか、など、きちんとした理由がないことだ。そう言う意味で公平ではなかった。公平ではないので、祖母の事なかれ主義が私の権利を踏みにじることも多々あった。事なかれ主義というのは、結局のところ臭い物には蓋をするという発想でしかなく、秩序や正義を公正に行うという姿勢は全くない。あるのは、自分に都合の悪い人間は黙らせるの一点だけ。

要するに法がない、秩序がない、あるのは祖母の主観だけ、だから、道理もへったくれもないし、ただ、騒がなければ、それが正義。そういう家だった。私がいくら道理を説いても、尊重されることはなかった。

私がそう言う祖母が嫌いになったのは、要するに歴史を学んだからだった。祖母のやっていることは、独裁者と同じであり、民衆の自由を奪い、生活を窮屈にし、反乱を起こされる指導者と同じ。やっていることは、他者の蹂躙によって無理やり秩序を作る。しかし、その根底には絶えず不満のマグマが溜まっており、必ず、反乱を起こされる。今、私が祖母が死した後でも文句を言っているように私の心のなかで、未だにマグマが溜まっている。

祖母のやり方の一番まずい点は、偽善だということだ。他人を一方的に蹂躙して作る秩序なので、不公正で無責任なものであっても、騒がなければ、批判されない。むしろ、その不公正や無責任を批判した人間を、黙らせるのが祖母のやり方であり、家に秩序が生まれない。形式的な秩序は生まれるが、実質的な秩序や公正さは全く生まれない。むしろ、そういうものが生まれることを阻害してしまうのが、祖母のやり方の一番まずいところだ。

そして、出てくるのは権威を傘にきた無責任、義姉のような人間、彼女は、形式だけは立派、だけど、アタマが悪いので論理的に不公正なことが理解できない。論理的に∞となる要求を他人に突きつけ、それを私が拒否し、批判すると、私のほうが家を騒がせたとして、祖母に黙らされる。つまり、悪い奴が批判されず、ひたすら、声を上げたものを黙らせるという。非常に無責任な体制なのだ。こういうやり方の欠点は、秩序が生まれない、権威のフォーマットに従うものが尊重され、そうでないものは迫害される。道理も存在しない、あるのは、祖母の主観、客観的に物事を裁くという合理的な姿勢はゼロ。ひたすら、主観で裁く、非常にアンフェアかつ無責任、だから、文句をいう人間の権利が集中的に蹂躙される家、そして、大抵その文句は、正当なものであることが多い。祖母の正義というのは、形だけで、本質的な道理や正義が希薄、むしろ、それと逆行しているところがあり、そして、権威に逆らう特定の人間ばかりが権利を一方的に失う構造になりやすい。

私は、そういう家で育ち、高校の最後の頃には、体調を崩し、その症状は慢性疲労症候群によく似ていだ。あまりにも疲れるので、医者に行っても、当時は慢性疲労症候群という考え方はなく、仮病だと家族にバカにされた。特にあの憎たらしい義姉に。今となってみれば、あのストレスフルな家こそが、私の病気の原因だったのだと思う。実際、あの家から出ると、症状は嘘のように消えた。あの家の過去を見ると酷いものがあり、それを見るだけで、私がいかに正しく、祖母がいかに間違ったことをやっていたのかわかった。その酷い事例について、書くことは、憚られるので書かない。酷すぎるから、私が祖母に怒りを感じるのは、そういう深刻な現実を引き起こしたのにもかかわらず、自分が正しいと信じ、間違ったことを続けていたことだ。あの家のストレスフルな状況では、独りの人間にストレスが溜まりやすい。公平でないため、蹂躙行為が上から下へと流れるように独りの人間に集中しやすい。一番文句をいうべき人間、つまり、一番苦しんでいる人間の権利が奪われやすいのだ。祖母は忍耐が美徳だと思っていたが、とんでもない。それは明治時代の不公正な社会体制を温存していただけにすぎない。

祖母のやったことは、そういうこと。そういう最低かつ無責任なことをやっても、最高の権威、頂点にいるから批判されない。私のように批判するものがいても黙らせることが出来る。だからこそ、権威主義と無責任は仲がいいのだ。権威主義が無責任を養護し育てる。

安倍のやっていること、特定秘密保護法などは、まさに祖母のやっていることと同じ。自分の主観で、民衆のあらゆる言葉を封じることが出来る。私が特定秘密保護法に反対するのは、この日本社会そのものが、私の家にあったストレスフルな状態になり、一番苦しんでいるものを、一番黙らせ、苦しめる最低の社会になると推測できるからだ。

私が権威主義が嫌いなのは、それが無責任を助長し、育て、犠牲になる人間を増やし、それは大抵、弱いものを無責任に傷めつけても、非難されない社会を生む。むしろ、弱い者いじめに加担している人間ほど尊重される社会になるからだ。

一番苦しんでいる一番文句をいうべき一番弱い立場の人間を黙らせて一番苦しめる。道義的に最低のことをするのが権威主義と、それが生み出す無責任のなせる技である。だから、私は特定秘密保護法のような、権威主義的な法律には、反対する。それは、人の道に反しているからだ。