SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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私が落ち込みやすい理由

自分が落ち込みやすいのは、なぜかとふと考えてみたところ、それは、周囲から人格攻撃を常に受けてきたからだと思った。というのは、心理学の本を読むと、落ち込みやすい人というのは、自らの人格全体を否定してしまう。個別に解釈して問題として改善するという発想になりにくいという。

つまり、「私だから〜ダメなんだ」という論理で自己否定をし、無制限に自己を否定することにより最終的には、あらゆることを諦め、本当にダメに成ってしまう。

なぜ、こうなってしまったのか?このブログを読んでいる人は、私がそう言う人間とは対極にいると思うだろう。なぜなら、このブログには、問題を分析し改善する内容が少なからず書かれており、一方的にダメという内容ではない事が多いからだ。だが、私のそう言う合理的な姿勢こそが、私の人格を否定する人間を増やしてしまったというのが、過去の私を分析してわかったことである。

なぜ、他人が私の人格を否定したのか?それは、私に論破されてしまい、人格を否定する以外に選択肢がなくなってしまったからである。つまり、私が理路整然としていればこそ、私を、それ以外の要素でしか否定できなくなり、結果として、人格を否定する以外になくなってしまう。私は、いつもなのだが、ちゃんとした意見(論理)ならば、自分を抑えてでも聞く人間である。それは、天才の義父と話す子供時代の私に共通している点であり、きちんとした話ならば聞く、だが、意味がわからなかったのは、根拠の無い否定である。

例えば、私はイジメられていた頃、名指しで私の名前を◯×だとすると「◯×だからイジメていい」という理屈でイジメられた。これって明らかに人格差別なのだが、大抵、固有名詞、単語一つでの否定は、理由になっておらず、それそのもの全体を否定してしまう事になる。つまり、私が私自身であるから、否定する。彼等が私をイジメたのは、私がイジメられても無抵抗であるからイジメたと推測されるため、本当は「◯×は、イジメても抵抗しないからイジメやすい」というのが、彼らの正直な意見であろうが、それを言ってしまうと、自分が卑怯者になってしまうため、そこを省いて主張するわけである。かくして私の前では、彼等は、人格攻撃をすることになる。

また、私は仲の悪い義姉がおり、この方が頭の悪い人で、私よりも、かなり歳上なのに子供の私に対して論破されるどうしようもない人で、彼女はいつも私のいうことを「屁理屈」と一言で否定していた。これもワンフレーズで他者を否定する点、理由にならない論拠で人を否定するのは、いじめっ子と同じで人格攻撃だ。屁理屈であるのならば、なぜ屁理屈なのか、屁理屈という単語ではなく、文章(論理)で説明すればいい、そうやってちゃんと説明すれば私は、きちんと聞く人間なのである。でも、彼女はそれをしなかった。

屁理屈という言葉で他人の論理をすべてを否定できるのであれば、すべての主張に対し、その一言を言えば、否定できることになる。故に、そういう主張こそが愚にもつかない「屁理屈」であり、全く評価に値しない、もっと言えば、相手が言ったことをそういう根拠の無い論理で否定することは、個人攻撃であり、人格否定である。

なぜ、それをしなかったかというと、既に私に論破されていたからである。つまり、私は論理的であるがゆえに、それ以外の方法で、否定されなければいけなかった。なぜ、彼等が否定したのか、いじめっ子にとっては、無抵抗な私は憂さ晴らしにちょうどいい存在だっただろう。そして、義姉にとっては、話をしても歯がたたない私に対して、屁理屈という理由にならない言葉以外に反論する能力がなかったのだろう。つまり、私が人格攻撃を受けるのは、私が無抵抗であったり、理路整然としていたからである。つまり、私は、どうでもいい争いを避けたかったが故に争いに巻き込まれ、理路整然としていたからこそ、屁理屈といわれ、人格を攻撃されるに至ったのである。

義姉が私を否定しなければいけなかったのは、私が自分の実力以上の主張をする尊大な義姉にたいして、正確(バカ正直)に文句を言い過ぎたためである。尊大な人間がなぜ尊大なのかといえば、自分の実態は矮小なくせに、それ以上だと威張るからだ。子供の私に論破されるほど馬鹿なのだから、その身の程にあった姿勢で相手に接していればいい、それが正しいと子供の頃の私は思っていた。つまり、大人に対して非常に生意気なガキだった。生意気であるが、間違ってはいなかった。だが、尊大な人間というのは、そういう事を受け入れられないから尊大なのであり、その事実を私は無視したことが、私が個人攻撃、人格否定を受ける理由だったのである。子供の頃の私は、他人がそんなに尊大で愚かだと思いたくなかった。つまり、その部分において願望で行動していた。しかし、私は願望ではなく事実を受け止めるべきだった。相手は尊大な愚か者であり、それに対して、理を問うても、返ってくるのは、人格否定や無理解、一方的な敵意でしかない。それを理解して、私は彼女に対して、相手にしない態度、例えば、素直に話を聞き、適当にあしらっておけばよかったのである。それを真正面から、論理的に否定するものだから、人格否定に晒されるのである。

そう言う意味では、私もまたバカであったといえるのだが、私が否定された理由というのは、人の心理を弁えて、行動しなかった点にある。それ故に反発を買う。そして、なぜ、そうなのか意味がわからないので、なぜ、自分がダメなのかわからない。相手を論破しているし、間違ってもいない、なぜ、私がダメなのか?何か自分に未知の問題点があるのかと、疑問に思ったが、理由にならない否定なので、それがよくわからない。理由を聞いても答えない。だが、相手の立場に立ち、相手の心に立ち、考えてみれば、簡単にわかることであった。それは「私が」ではなく、「相手が」問題だったのである。

私が個人攻撃を受けるのは、私の姿勢が相手の心理を弁えなかった点にある。大人の彼等から見れば、子供の私に論破されるなど、恥以外の何物でもない、面子を潰されているのだから、それを回復するのに苦し紛れに「屁理屈」という言葉を使う。いじめている人間も、本当のことを言ってしまうと自分が卑怯者になってしまうため、「◯×だからイジメていい」という事を言ってしまう。かくして、私は無抵抗で可愛くない子供であった為、人格攻撃されやすかった。子供の私に必要だったのは、やられたらやり返す気概と、バカな人間を真正面から相手にしない強かさだった。

私が落ち込みやすかったのは、そういう自分の態度や姿勢から生じる人格攻撃に対して、理解できず、そして、それが漠然とした不安となった事が原因だった。私は正しいことを言っていたはずであるが、何故か否定されてしまう。人は正しいことを否定するものなのだろうか?というように人間不信に陥ってしまった。この事が、結果として落ち込みやすい原因となった。しかしそれも、相手を見ればすぐ分かること、義姉が尊大なのも、いじめっ子が卑怯者なのも、それは見ればすぐ分かる事。彼らからしてみれば、私は正しいからこそ、自己の自尊心がダイレクトに否定されてしまう。それを避けんがための人格攻撃なのである。(他者を自分よりも下と理由もなく設定する)それしか否定できるものがないからだ。かくして私は人格攻撃され続け、理由もわからぬまま、不安になり、それ故に落ち込みやすくなってしまった。その根拠は、要するに他者の自尊心を顧みず、自己の主張を通そうとした私に問題があると、私の家族は私に言いたかったのであろうが、正当な批判を、そのような事で批判するのは、公平ではなく、差別的扱いであり、まったく妥当なものではなかった。今から思えば非常に憤慨する。そして、そういう家だったからこそ、私は不安になり、落ち込みやすい子供になってしまった。彼らは、きちんと説明するべきあった。バカの相手はするなと。

つまり、よってたかって子供の私に対して人格を攻撃し続けた家だった。それ故に私は落ち込みやすかったのだ。私は、そう言う卑怯者で差別的な家から出た段階で、その考えを改め、落ち込まず頑張ればよかったのだ。

かくして、私は、様々なワンフレーズの批判を受けることになる。

「屁理屈」

  • 理屈が通って反論できないからそう言われる。

「くだらない人間」

  • くだらなくない、むしろ賞賛される存在だが、それを認めると己の功績に傷がつく(私の手助けで成功した奴の言葉)

「バカ」

  • 他人の心を弁えず、馬鹿正直に喋るからバカとも言える。その意味では、この3つの内、一番まともな批判であるが、私の言っていることの正しさを否定できないので、話の内容以外の別のベクトルでバカというしかない。

私は、悪口雑言を浴びせられるが、彼らは、なぜ理屈が間違っているか、なぜ、くだらないか、なぜバカなのか、一言も私に説明していない。それは、いじめっ子や義姉と同じで、それを言ってしまうと、自分が卑怯者であり、尊大であり、恩知らずであることを認めてしまうからである。このように私は、本来、敬意を払われるべき正しさや功績を持っているが、他者の評価が芳しくないのは、ひとえに他人の自尊心を無視するからである。かくして、私は悪口雑言を浴びせられる事になる。そして、自信を失い、何もできなくなっていたとも言える。理由もわからずに。

彼らがもし、私がその悪口雑言に比例する報復をする人間だと思っていたら、そういう事は一言もいわなかっただろう。私が、そのような事を言われても、報復をしない人間だとわかっているからこそ、そのように喋れる。つまり、彼らは私に甘えているのだ。普通の人には言えなくても私には言える。私が、報復をしない臆病者であることを知っているから。だが、そうやって人を傷つけ、苦しめている人間がいくら威張っても、いくら賞賛されても、私は、評価をしない。なぜなら、私は彼等の真実を知っているから。

私が改めるべきは、敵を増やさないために、他人の自尊心や尊大さ、卑怯さ、愚かさに合ったものの言い方をすることである。そうでないと一方的な敵意にさらされ、苦しめられる。私が思うに、人間に醜さはつきものであるから、それを否定されたら、立つ瀬がなくなる。私はそういう醜さをイジメられる過程で、否定したかった。だが、そう思うあまり、必要以上に他人の自尊心の存在を軽視してしまった事が、私が嫌われる理由である。悪口雑言も、私のそう言う態度がもたらしたあものである。人生を楽しく生きたいのならば、濁れるが如しである。水清くして魚すまず、この言葉が私にはぴったり来る言葉である。私という清き小川には、魚(友)は一匹とて住めない。多少濁っている程度がちょうどいいのである。

そして、私は落ち込む必要はない、悪口雑言の多くは、私には関係ないことから生まれたもの。私自身への批判というよりも、彼ら自身への自己への批判的視点がそうさせたもの、私がそれを直感で見抜いて馬鹿正直に言ってしまうので非難される。つまり、元を正せば私の責任ではない。他人の責任を私が背負う必要はない、私が彼等の自尊心を少しだけ尊重し、言葉を変えてやれば、他人の態度は変わることだろう。だから、私は何も悪くない。悪いのは他人、私が悪い部分は少しだけ。ちょっと気を利かせなかった事、それだけのこと。だが、他人にとってはそれが大きいことなのだ。その大きさを理解できなかったことが私の過ちであり、私が非難された理由なのである。私は落ち込むほど、愚か者ではない。むしろ、愚か者ではないからこそ、愚か者としなければ、彼等に立つ瀬がなかった。それだけのことなのだ。