SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

偽善者はいつも矮小な正義で巨悪を無視する。

偽善者は、矮小な正義で巨悪を無視する。私が偽善者の論法を聞いていて思うのは、そういう事。小さな正義を実現するために、巨悪から目を背ける。結果として巨悪が野放しになり、弱者を苦しめる。彼等の何が問題なのかというと、等価交換の原則に反しているからだ。小さな正義を実現すために、巨悪を野放しにするということは、小さな正義と巨悪が同等の価値を持っていることになる。そうなると、小さな正義が沢山あれば、たくさんの巨悪から目を背けていい事になる。つまり、巨悪を無視するのならば、それと同等の正義がなければ吊り合わない。つまり、同等の正義でなければいけない。

 悲惨な写真をSNSに平然とシェアする人間に戦争を語る資格はない
 http://blogos.com/article/90420/

この方の言っていることは、その正義と悪の対称性が崩れているので、私は偽善だと思う。なぜなら、単に自分が見たくないという願望を実現するために、戦争の悲惨さから目を背けていいという極めて矮小な正義で巨悪から目を背けることを平然と主張している。私は、こういう人間のほうが、はるかに残忍だと思う。

なぜならば、人の苦しみを理解するためには、そこから目を背けてはいけないからだ。目を背けず、直視する姿勢がなければ、その苦しみに真正面から向き合うことにはならない。戦争を体験した人たちが、平和憲法を守ってきたのは、なぜだろうか?彼等は、戦争の悲惨さを見た。目を背けることなど出来なかった。その結果、戦後70年にわたって、前の世代は憲法9条を守ってきた。そのことによって日本は戦争を避ける事が出来た。そして、平和の国として世界からも一目置かれる国になった。それは、誇るべきことだ。戦争を避けるというのは、ある意味、相手が刀を振りかざしている時に、丸腰で向き合うことである。それは、とても勇気のいることだ。その相手を真正面から見て、その上で戦わない。その覚悟はどこから生まれたのか?それは、戦争の悲惨さを知っているからだ。見たからだ。そこから目を背け、逃げるような人間に、その覚悟が生まれるだろうか?恐らく出来ないだろう。私は、悲惨さから目を背けず、心に刻みつけ、そういうことは、やっても意味が無いという矜持に至った人間こそが戦争を語る資格がある。そこから、目を背ける人間こそ、戦争を語る資格はないと思う。なぜなら、それがどういうことか直視する勇気もないものに、戦争という極めて悲惨な現実を直視し、語ることなど不可能だと思うからだ。ましてや、目を背けるだけならまだしも、黙らせるなど言語道断である。何様のつもりだ。

単刀直入に言うと「見もせずに語る資格はない」という事。見ることを避けた段階で、状況を無視したことになり、既に語る資格なし。単なる偽善者。

以前の記事で悪平等や偽善について說明した図があるので、それを紹介したい。

悪平等の構造
http://d.hatena.ne.jp/skymouse/20090105/1231139314

マザー・テレサの言葉
 
 「愛の反対は憎しみではなく無関心です」

愛の反対は、憎しみではなく無関心、目を背け奇麗事を言う奴、私は、そういう奴が一番信用が出来ない。一番愛のない、冷酷な人間、信頼するに値しない。

 イメージキャラクタ:かつ江さん
 

これは、非難が集中し公開停止になった、私は、こういう人の苦しみを表現したものに対して、公開停止にする社会こそ怖い。こういうものを非公開にせず、直視して、こんな事をはしてはいけないと思いを新たにする人たちが沢山いる社会こそ健全な社会だと思う。よく考えてみて欲しい。人の苦しみを見ず、耳辺りの良い物、そういうものだけ選んでいったら、最後に到達するのは、マザー・テレサが言う無関心だ。つまり、愛の反対の状態である。このイラストが公開停止になった今の社会、憲法9条が壊され戦争ができる国に日本はなりつつあるではないか、そして、こういう悲惨なものを外国や自分の国で見るような状況を生み出しつつある。要するに、自分が大事、人の苦しみなんか知らない、見たくない。そういう人間は、憲法9条の価値なんてわからないし、戦争について語る資格なんてないんだ。

彼等の主張の延長線上には、「はだしのゲン」を公開停止にしようとした連中と同じ意識を感じる。あのマンガがなければ、私は核の恐ろしさを知ることは出来なかった。私は、子供ながらに、あまりにひどく目を背けたくなったが、見なければいけないと思った。そう悲惨だけど、そう言う現実があったということを子供でも理解し、目を背けなかったということだ。そう考えると彼らは何を否定したいのだろうと思ってしまう。子供ですら、その意味を理解できるというのに。