SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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勝利について

私のアイディアを元に成功した知人がいた。彼は私のアイディアを使ったのにもかかわらず、成功した後、私に感謝の一言も言わなかった。しかし、不思議と、そいつに勝ちたいとは思わない。いまいち勝ちたいとは思わないのだ。コレほど、侮辱されているのに、自分の心が「奴に勝ってどうする」と思う心のほうが強いのだ。しかし、なぜ、自分がそう考えるのか、最近、本気で勝ちたいことが見つかってわかった。

私が勝ちたいと思うことは、それは、安倍から市民の権利を取り戻し、民主政治を復活させることである。つまり、私にとって勝つということは、誰かより優れていることを証明するような、つまらない事ではないのだ。それは、やる気が出なかった。何となく、子供のケンカっぽいので、それに膨大な労力と精神力を使う気にはなれなかった。

どうせやるのならば、それに値するものに力を使いたいと思った。私にとって、誰かよりも優れているという勝ち方というのは、いじめっ子が弱者を虐げているのと同じで、強者が弱者を踏みつぶす行為だ。だから、私は、それと同レベルの勝利を欲しいとは思わない。なぜなら、彼よりも優れていた所で、それは全く個人の優劣のレベルの話で、何の価値も私にはないからだ。

私の価値体系からすると、皆が幸せに生きられるような世界、弱者が強者の横暴に苦しむことのない世界こそ、真の勝利といえるものであり、自分が偉い、優れているなどというお山の大将的な発想はバカバカしくてやってられないのである。だから、自分は、そういう発想には成り得ない。だから、どんなに侮辱されても、それに対して、怒る以前に、やる気すら起きない。それは、私の感性が「そんなことは全く価値がない」と言っているからだ。そんな敗者のいない勝利などあるわけないと思うかもしれないが、発明がそれにあたるのである。その発明によって社会の多くの人が恩恵を受ける。全体が勝者となる。実際には、過去が敗者となるが、それは、逆に言えば現在のすべての人が勝者とも言える。

例えば車輪の発明、それを馬やロバに引かせることで重たいものを誰もが運べるようになった。力持ちでなくてもロバや馬を操れれば、輸送の仕事ができるようになった。これは、力がなくても、誰もが新しい選択肢を得ることが出来るという好例だ。つまり、すべての人に恩恵がある。すべての人が勝者となれる。そういう敗者がいない勝利というのがある。

勝者がいるから敗者がいるというよりも、良い発明は、勝者が多数、敗者が少数である。だからこそ、発明は人々に尊重されるのだ。沢山の人に恩恵があり、敗者を減らすからだ。そういう考え方の私にとって勝利のために敗者を必ず必要とする論理というのは、いささか硬直化した発想に思える。勝利の仕方には多様性があるのだ。皆が勝つ方法論もある。

自由貿易協定で、不必要な公平感で自分たちは途上国と同じくらい貧しくならないといけないんだと思い込んでいる若者を見ると、そんな負け方をしなくていいんだと言いたい。なぜなら、日本の技術を持ってすれば、最新の技術から、食料、エネルギー、資源の自給が可能であり、よって、外国と無理に競争しなくても、それらの技術を使えば、皆がエネルギー、資源、食料を自給して幸せに生きることが出来る。つまり、競争を放棄したっていいわけだ。

私は勝利は、手段にすぎないと思っている。何のために勝利するのか、その根源的な目的は「生きること」生物にとって最終的な勝利は、生き残り、子孫を残すことである。(恐竜は敗者であり、哺乳類は勝者)それにもっと人間的なものを加えるとするならば、より良い生き方を出来たものが勝ちという事である。

皆がより良い生き方を選択できる社会、それが真の自由な社会である。私たちは生きるために経済競争に勝つのは、手段の一つであって目的ではない。もっと言えば、経済競争に勝つために、より良い生き方のできない社会(残業代ゼロとか)など、本末転倒なのである。

よりよく生きることが人間としての勝利であり、経済競争に勝つのは、よりよく生きるための手段の一つにすぎない。よって、より良く生きるのに経済競争が不的確ならば、それは放棄してもいいわけだ。別の生き方で皆で幸せになる勝ち方もある。そういう臨機応変な生き方、柔軟な生き方こそ、私が目指す本当の勝利だ。

思えば、それに今まで気づくことが出来なかった私は、感性が成熟しているのに対し、意識は、それに追い付いていなかったといえる。だから、これだけ侮辱されているのに、何故勝ちたいと思わないのか不思議でならなかった。だが、やっとわかった。私は敗者の上に立って勝者になるよりも、皆で勝者になりたかったのだ。(思えば、Macグラフィカルユーザーインターフェースに感動したのも、すべての人が勝者となり得ると思ったからなのだ)