SKY NOTE

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東大の学園祭を見て思ったこと「ブランドよりもノブレス・オブリージュを」2014.5.18

金魚の餌を買いに東大前を通ったら、東大の学園祭、五月祭がやっていた。どうして、学生がこの国が戦争しそうな危険な状態なのにデモなどに出ないのかと思い、入ってみた。

1.非常に頭がクリアな東大生

  • 物理学の展示でミューオンによる透視実験についての説明を聞いた。非常によく整理された説明で、まるで、とても分かりやすく整頓されたノートと話しているような感じだった。勉強というのは、知識を整理し、頭のなかに効率的に入れることではないかと思うくらいだった。そう考えると、物事を伝える為には、情報を整理する事こそ、一番重要ではないかと感じた。
  • 物理学科の展示から出て、東大生が読んだ参考書が割安(2600円→450円)で売っていた。読むと中身が濃く、そして、よく整理され、適切に図解もある良い本だった。良い本を読んで、よく学んでいると感じる。ここでも知識というのは整理整頓が重要なのだと感じた。要するに東大生とは、知識の整理が上手で、それ故に大量の情報を頭のなかに無理なく詰め込める人種なのではないかと思ったくらいだ。思うに、キレイに整理された知識を、キレイなまま頭のなかに入れていると感じた。それ故に知識を引き出すのも、整理されているので素早く、そして、運用も速い。そのように感じた。

2.東大というブランド

  • このように東大生は、非常に情報の整理が上手であることに感銘を受けつつも、同時にエリートとしての自覚は、どうなのかと考えると、現在日本はTPP交渉によって半ば経済植民地にされようとしている。台湾でのデモは、中国に対するサービス貿易協定への反対だったが、それと同種の特性を持つ自由貿易協定がTPPなのだが、学生がまるで、それに対して反応していないことには、非常に奇異に感じた。そう思いながら、学園祭の看板を見ると「東大生が〜」というタイトルの看板がある。つまり、東大というブランドを活用しているわけだ。しかし、この点について、私はあまり良い印象を持っていなかった。というのは、ブランドというのは、理念の結晶のようなもので、それを立場として利用するのはお門違いなのだ。彼らも学園祭という事で半ばジョークで言っているのだと思うが、霞ヶ関の官僚が国民のためという理念よりも己の立場だけでモノを言っている姿を見ると、若い内からブランドを背負って、それを守ろうという意識を持ってしまうのは良くないと感じた。ブランドを守ろうとすれば保守的になる。それを守るためには、挑戦を避けるようになる。よって、自分の東大生というブランドを守ろうとすれば、国の間違った行為に反対しようなどという挑戦的なことは、彼らの選択肢から外れるのではないか?では、数十年前、どうして、学生運動が起こったのか、恐らく、その頃はまだ、日本が貧しい時代だったから、貧しさとはなにか、支配される苦しみとは何か、理不尽なこととはなにか、リアルに分かっていたんだと思う。だから、それを許せない若者がいた。だが、最初から豊かな社会にいた彼らは、それを知ることは出来なかった。だから、許せないことが存在しない。あるのは、自分のブランドを守り、勝ち組になること。

3.理念なきブランド

  • そう考えると学生が立ち上がらないのは、危機をリアルに感じる経験そのものがないからということになる。よって、そういう彼等に期待するのは難しいと感じた。彼ら自身に、それを許すことが何であるか分かっていないのだ。ある意味、知識で知っていることと、経験で知っていることの差があるのではなかと思う。負の経験がなく、正の経験しかない彼等に危機という負の状況を把握できないのは、道理かもしれないなと思いつつも、歴史を理念のレベルにまで高めた教育ができなかったのは失敗だったと感じる。つまり、情報を整理するだけでは超えられない壁がある。彼等は理念が弱い、理念が弱いと、お互いのエゴが、全体の利益を食いつぶす。だから、デモにも参加しない。最終的には、その結果、安倍みたいな奴がでしゃばってきて、集団的自衛権の容認やTPP参加によって、国がどんどん悪くなり、そのデメリットが自分自身に跳ね返って、負の状況を経験し始めた時、初めて、自分たちが「しなかったこと」の重大性が理解できるのではないだろうか?それまでは、デモなんてカッコ悪いとか軽く思ってしまったり、自分のブランドを守るためには、そういう挑戦はしないという考えになってしまうのではないかと思った。そう考えると、デモなんてカッコ悪いと考えている人間が、一番かっこ悪いのだと思う。というのは、カッコイイ人間というのは、理念がある人間で、自分を守ることばかり考えているセコい奴ではないのだ。スティーブ・ジョブスが、Appleブランドを作りたいと思ってAppleを創ったのではない。ウォズが作ったPCのプロトタイプを見て、これを沢山売れば世界が変えられるかもしれないと直感し、Appleを創った。つまり、世界を変えようという理念があって、その後にブランドがついてきた。真のブランドとは、理念に裏打ちされたものなのである。単なる立場とは違う。そう思いつつ、デモに参加しない学生の心理を何となく感じ、この楽しい風景が壊される事態にならないことを願いながら、東大を出た。

4.エリートに必要なのは、ブランドではなくノブレス・オブリージュ

  • そして、エリートである彼等に何が必要なのか、自転車に乗りながら考えていた。結局、東大というブランドは、周囲の学歴コンプレックスが作り上げたものであり、私たち自身が作っている。彼らはその上に乗っかっているにすぎない。劣等感から生まれたものだから、そこに理念とか具体的なものはない。ただ、自分ができなかったことを出来ている人間への羨望だけだ。だから、このブランドには、明確な理念というものはない。ブランドには、2つの要素があると思う。それは、立場と理念だ。東大というブランドには、恐らく理念はない。純粋に立場だけが強調されたポジションだと思う。これに乗っかっている学生の何が問題かというと、官僚を見れば分かる。原発は安全だと言いはるのは、政治家のみならず、役人も言っている。というのは、彼等は国民を守るという理念ではなく、自分の立場、つまり、それを認めると責任を取らされる立場で話している。よって、理念よりも立場が勝ってしまうと、保身のために他人を切り捨てることを平気でする。そして、お互いの立場のせめぎ合いは、セクショナリズムになり、省庁間の争い事にもなる。そこに国民の権利や安全などの理念は微塵もない。つまり、エリートが立場を重視し過ぎると、それは、庶民にとっては害悪になりかねないのだ。

5.学生には理念のある真のブランドを目指して欲しい

  • 東大生というのは、国家を背負うエリートであるから、そういうブランド志向を持ってしまうのは、税金を払っている国民から見れば、困ったこととなる。国民のために仕事をしてもらいたいのに、彼等の保身(ブランド)のためにやってもらっては困るのである。よって、私はエリートには、ブランドよりもノブレス・オブリージュ(持てるものの責任)が必要だと言いたい。

【Wikipedia:ノブレス・オブリージュ】
ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない社会の心理である。それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見なされる。法的な義務ではないため、これを為さなかった事による法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けることはしばしばである。

  • かれらにエリートとしての自覚として、自己のブランドではなく、ノブレス・オブリージュを教えないといけない。残念ながら、私達自身が彼等のブランドを尊重し過ぎることが、彼等を腐敗させてしまっている。劣等感という栄養源が豊富な苗床でブランド志向という苗がすくすく育っている。私はもっと、教育に哲学を加えるべきだと思う。特にエリート教育において、それが必要だと感じる。老子孫子ソクラテスなど、偉大な哲学者の言葉を学ばせ、エリートとして、どのように生きるべきか、きちんと教育しないといけない。彼等は非常に理路整然として賢いのだが、しかし、彼等に足りないのは理念という皮肉、賢明ではあるが、徳がない。徳について語るには、哲学を学ぶべきだと思う。スティーブ・ジョブスを見ればわかるけど、本当にカッコイイのは、理念のあるブランド。彼等には、コンプレックスから出来た見窄らしいブランド(立場としてのブランド)よりも、理念で出来た本物のブランド(思想・理念の結晶としてのブランド)を目指して欲しい。私たち一般庶民も、劣等感ではなく、ノブレス・オブリージュのような目線でエリート(持てるものの責任・義務)を見るべきだと、五月祭を見て思った。