SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

事実を言うことが必ずしも正しいとは限らない

時々、事実を言うのが正しいのかと感じることがある。事実を考え、それが悲観的なものであった場合、それによって生じる焦りや、意気消沈による気力の衰えなどを考え合わせると、単に事実を言うのは間違いだと感じる。特に悲観的な現実への対処は、注意が必要である。なぜなら、悲観的な現実で精神的にダメージを受けてしまうと、後のことが大体うまく行かなくなってしまうからである。つまり、悪循環(スランプ)に陥る。

つまり、事実を認識することは大事だが、その解釈が適切であるかどうかは別問題なのだ。事実を悲観的に捉え、焦ったり、狼狽したりしたら逆効果である。それは事実であっても、その解釈が必ずしも正しいとはいえないからだ。私が高校生の頃、義姉と対立していた。彼女は常に私に現実を言って苦しめた。私はその現実を彼女に言われるまでもなく理解していたが、どうしようもなかった。私は彼女によって精神的に追い詰められ、今にして思うと、その症状は慢性疲労症候群と言えるものだった。半年以上も疲労感が抜けず、とにかく苦しかった。

私がこの症状を解消したのは、高校を卒業し、東京へ来て、あの家から出て義姉と顔を合わせることがなくなってから、症状がなくなった。要するに私にとって、義姉の存在が、病の元であったのである。彼女は事実を言ったが、そんなことは私が知らない事ではなかった。問題は、そこから抜け出す方法を私が知らなかったことであり、私が聞きたかったことは、わかりきった事実ではなく、そこから抜け出す方法論であった。

彼女は、私に現実を言うことで、私を病に陥らせ、問題解決するための気力を奪った。つまり、事実を単にいう事が間違いなのは、この事から明白だ。人を病にしてしまっては問題など解決できようもない。多くの場合、事実ではなく、その解釈に問題があったのである。私が必要としていたのは、事実よりも、その事実を鑑みながらも「励まし」と「勇気づけ」そして「適切なアドバイス」である。励ましと勇気づけで気力を与え、適切なアドバイスで正しい方向を示す。それが必要なのである。

言ってみれば転んで泣き叫ぶ子供を励まして起き上がらせ、どこへ行くべきか指し示すようなものである。現実を単にいうことは何をしているのかというと、転んだ子供を愚か者と罵倒し、起き上がる気力を奪い、そして、何ら正しい方向も示さないのだから、その子は泣き叫ぶだけである。これではらちが明かない。

転んだ時に大事なのは、そこから起き上がる気力や勇気であって、現実認識ではない。現実は転んだ時の痛みによってわかりすぎるほど分かっているのだから、そこへ現実を言うことは、その転んだ時のキズに塩を塗るようなもので効果がないばかりか、痛みで立ち上がる為の気力や勇気をなくしてしまう。よって、現実を殊更に言うのは問題である。大事なのは励ましと勇気付けである。そして、その上で、納得のできる状況打開策の提示だ。

思えば、私の周りにいた女性は、私が辛い時、「我慢しろ」とか「現実を認識しろ」とか結果が出せない私を「覇気がない」と言って私を苦しめた。確かに辛い時には我慢も必要だし、現実を認識することも必要、気力も大事だ。だが、彼女たちの過ちは、それを人に与えず、むしろ、それを私の心情を理解せず言うことで私からそれらを奪っていたことだ。

彼女達は表面的な現実しか理解できていなかった。もう一つの現実である人の状況や心という「内面の現実」を見ていなかった。高校時代の私を例に取ると、我慢はし過ぎるほどしていて、体まで壊している状態で「我慢しろ」というのは、何ら益がないばかりか、苦しいだけだったし、「現実を直視しろ」というのは、成果が出せなくて一番つらいのは私自身であり、それは、私自身が、わかりすぎるほどわかっていて、それを言っても全く意味がなかった。必要なのは外面的な現実ではなく、その現実をクリアする方法論(考え方)だった「覇気がない」というのも、励ましや勇気付けをするでもなく、単に罵倒から元気が生まれるわけはなく、何ら建設的ではなかった。

私の周りにいた女性たちは、外面の事実を言っていたが、内面の現実、つまり、人の心を全く理解していなかった。だからこそ、私を病にし、気力を奪い、意味がないばかりか、有害ですらある「助言」によって私をさらに苦しめた。彼女らがしたことは、常に私から奪うことであって、与えることではなかった。彼女たちには人間として必要な最低限の感性がなかった。故に、人の内面の現実、つまり「心」を認識できず、逆効果になることばかりをしてしまった。彼女らが言っていたこと(現実)は、外面的に正しかったが、内面的には間違っていた。それは大抵、私が認識していたことであり、全く供給過剰とも言えるもので、全く需要がなかった。私が欲していたのは心理的現実と問題への対処であり、そこから抜け出す気力と体力と知識であった。彼女達がしていたことは外面的な現実を殊更に指摘することで、まず、私の気力を奪い、それが病になって、体力を奪い、その結果、私を立ち上がれなくするという愚行を犯していた。

私が間違っていたのは、現実の認識ではなく、それを解釈する自分の心の持ち方であった。自分が愚か者だと思い、自信をなくした状態で前に進むのは至難の業である。大事なのは努力すれば出来ると信じ、頑張る事であって、出来ない自分を非難したり、罵倒することではない。自分を励まし、勇気づけて気力を回復し、その上で冷静になって、努力すれば出来ると信じ、適切な対処をしていくことである。その際に自分を罵倒したり、非難するのは、気力を奪い、益がないばかりか、有害ですらある。そのことを理解し、私は自分の心の持ち方を是正しなければいけなかった。

幸せな家庭に生まれた人は、それが多分自然に出来たのかもしれない。だが、私の家族は、不幸せな人たちだったので、人の心が理解できず、その結果、現実の半分つまり、内面的なもう一つの現実を理解していなかった。それ故に他人に建設的なことが言えず、むしろ、非建設的なことをして、私を苦しめた。人は、結局、心の動物であるのだ。その現実を無視した時、不幸が生まれる。彼女達は、人に現実を言いながら、本当は自分たちこそ、その現実を理解していなかったのだ。本当に現実を理解するべきだったのは、彼女らの方であり、その誤った認識を私に植え付け、苦しめるべきではなかった。だが、そのような彼女らが間違いを犯したのは、彼女ら自身が、不幸な人たちだったからである。幸せを知らない人たちであった。幸せに対する無知、それが彼女らの失敗の原因であり、私が彼女らを反面教師にして学んだ事でもある。

現実は、外面(表面的な現実)だけでなく内面(心の現実)も見なくては、現実とはいえない。それを認識して対処することが大事だ。その両面を認識することこそ、本当の意味で「現実的」といえるのだ。それを把握すれば、表面的な現実で人を苦しめることは、もう一方の現実である心の現実を損なうことを意味し、何ら意味が無いことを知るべきなのだ。現実を言う価値が有るのは、それを理解していない時であって、己がそれで苦しみ、理解し過ぎるほどわかっていて悩んでいる者に、殊更に言うべきではない。そう言う時に大事なのは、気力と体力と正しい方向性であって、「分かりきった現実」ではない。本当に必要なのは「わかっていない現実」、つまり、気力や体力を回復させる事、そして、それを打開する方法論である。供給(助言)は需要がある(分かっていない)ところにしなければいけない。

彼女らが私について間違っていたのは、私を現実を直視できないバカだと思っていたことだった。だが、わたしは現実を見て、絶望していたのであり、直視していないのではなかった。私に足りなかったのは、現実のもう一方の側面、努力して変わる現実、今の状況から抜け出す気の持ち方である。彼女らは、人を苦しめるばかりで、最も大事なそれらのことをせず、私の無能さに苛立つばかりであった。だが、私の、その無能さの根源は、彼女ら自身の影響によるものであった。

人が有能になるためには、正しい努力が必要だ。そのためには、正しさは、適切なアドバイス、努力は気力を奮い立たせる勇気づけや励まし、体調管理が必要であった。彼女らがしていたことは、私を罵倒し、中傷し、私の病原菌になることでしかなかった。甚だ無益な方々であった。彼女らに益があるとするならば、私が彼女らを反面教師にし、その逆を他人に行ったことである。そう言う意味では、勉強になったと言えなくもない。いかに、そういうことが間違っているのかを私は身を持って知っているだから。

わかり過ぎている「現実」よりも、「わかっていない現実」こそ述べるべきである。