SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

主体性とはなにか

主体性とは何かと思うことがある。自分も主体性がある方ではないのだが、主体性のある人間と比べてみると、決定における責任の重さを過剰に見積もっているのが主体性のない人間、適度に見積もっているのが主体性のある人間のように思える。

そう言う意味で、過剰に個人に責任を追求する姿勢は、責任の集中化やインフレを起こし、それが主体性をなくす原因になるのではないかと感じる。マスコミ報道で違和感があるのは、特定の人間の責任を過剰に追求する事が多々あることである。チームでやっていたならば、チームの責任として追求するべきで、個人に対し、まるで見せしめのようにあげつらい、厳しく追求するのはオカシイ。

言ってみれば、主体性とは、責任と相対関係にあるように思える。責任を過剰に認識すれば、あらゆる決定をしたくない。つまり、主体性がない。しかし、責任を適度に見積もり、その中で自分に出来る範囲と出来ない範囲を具体的に把握していれば、出来る決定と、出来ない決定を峻別でき、その結果、主体的に行動できるのではないかと思う。

責任の認識におけるバランス感覚が適度であることが、主体性ではないかと思う。他人に責任をなすりつけて、自分の責任を棚に上げる姿勢は、結果として、責任恐怖症を生み出し、それが全体に恐怖をもたらし、最終的には、全体の主体的意思を制限することになる。つまり、自由ではないのだ。

自由を尊重するというのは、自分の自由の代わりに、その責任も背負う。それを他人にも課す。自分の自由のために生じた責任を、他人になすりつけるのは、自由を冒涜しているわけである。自由を尊重するのならば、テメーのケツはテメーで拭くというの原則なのだ。だが、他人のケツまで拭く必要はないというのが自由、思うに、自分のケツを他人に拭かせる恥ずかしい大人が多すぎるのではないかと自分は思うのだ。

政治が悪いのは、優れた政治家を選ばない民衆が悪いのである。市民の立場に立った政策を掲げる政治家が、落ちる度に思うのは、この国の民は政治に対して、無知すぎる。その結果、政治が悪くなり社会が悪くなった責任を、政治家のせいにする。しかし、実際には、そういう政治家を選んでいるのは自分達自身、その責任を考えれば、きちんと政治について勉強するのは、市民の義務であり、責任だと思う。ましてや選挙に行くのも義務、その義務を放棄して、他人に責任を転嫁するような恥ずかしい事をやっていていいのだろうかと思う。

言ってみれば主体性とは、いかに自由に対し、真摯に向き合い、その責務を自己に対して全うし、同時にその責任を他者に対しても求めるが、しかし、自己の責務を他者に転嫁することはしない、そう言う大人の態度が取れる人間のことを主体性があるといえるのではないかと思う。自分の国を守るために、それをやった台湾の市民は大人だと思う。しかし、政治が悪いと言いながら、選挙にも行かない日本人は子供だと思う。

広告を非表示にする