SKY NOTE

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不可能という妄想に取り憑かれている日本

社会全体を示す数字を眺めていると、食料生産に必要な農地、エネルギーの自給に必要な省エネの規模や再生可能エネルギー、資源の自給に必要な技術の生産コスト、色々と目を通して分かることは、日本は、エネルギーの自給は可能であり、資源の自給も可能、食料自給も可能である。だが、多くの人々は、それが不可能であると信じるあまり、グローバル競争こそ、日本が生き残る道だと思っている。そう言うある種の妄想に取り憑かれている。

 Wikipedia:妄想

  • 妄想(もうそう:delusion)とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(むしろ病識がない)場合が多い。精神医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であるということや、経験、検証、説得によって訂正不能であるということ、内容が非現実的であるということが特徴とされている。日常的な会話でも用いられることもあるがそのときはいかがわしい考えや空想を表し、必ずしも病的な意味合いを含むわけではなく軽い意味で使われている。

しかし、このグローバル競争そのものが日本人を死に向かわせる流れを生むことは、アメリカの医療費が日本の3〜10倍という数字から分かっている。TPPに入ったら、そういう医療費を払わなければいけなくなる。つまり、高い医療費が払えない人は、死んでしまう。

それもこれも全ては、このある意味、迷信とも言える。エネルギー、資源、食料が自給できない妄想にも等しい確信が、その原因なのである。よって、その誤解をとくべく、当ブログでも、過去に食糧自給、資源自給、エネルギー自給について論じてきたが、アクセス数はあまり芳しくない。この問題が解決すれば、日本人はグローバル競争がもたらす「死」を避けられるばかりか、安定した経済による安心できる社会が手に入れられるのにもかかわらず、その価値が全くわかっていないと私は思うのだが、ある日、他人に「どんなに価値ある情報でも、情報というのは磨いて輝かせないと人に伝わらない」と自分が言ったのを思い出すと、「ああ、そうだ、磨きが足りないのだ」と感じた。自分が言ったことながら、そういうことなんだと思う。それは、多くの人々がPCを使うのに今のGUIではなく、スクリプトベースのMS-DOSを使っていた頃、そのユーザー数は少なく一般的ではなかった。しかし、グラフィカルユーザーインターフェースになることで、PCは一般化した。ある意味、数字だけを並べていた僕の記事は、MS-DOSだったのだ。WindowsMacではなかったと言える。

食料自給率に関して、農地の面積や面積あたりの生産量、農法、作物の種類、気候、放射能などを総合的に勘案して表計算ソフトをいじりながら、最善の組み合わせを見つけた段階で満足してしまった。そして、自信を持って数字を並べたが、その数字の価値が全く伝わらないのである。それは、この数字を作るときに様々な問題点を勘案し、それをクリアできる組み合わせ、そして、それらがエネルギーや資源の生産とも有機的に密接に関わり、一切の無駄なく完璧に組み合わされていることも、数字(文字)を見ただけではわからない。それだけで、わかるとしたら、結構頭のいい人である。そういう意味では、私は数字を磨いていたが、それを表現するための情報については磨いていなかったと言える。私は中身を作っただけで満足していた。それが伝わらなければ意味が無いのに。

私はIllustratorPhotoShopを使って、それをわかりやすく図にして示すことも出来る。それがどれだけの価値が有ることなのか、社会的な意味も説明することが出来るのだ。もし、それができれば、グローバル帝国主義に飲み込まれようとしている世界各国の人々を救う事にもなる可能性を日本の技術が秘めている事を伝えられるのにもかかわらず、私は、その方向性を文章に書いただけで満足していた。私はそれができるのに、やらなかった。必要ないと思ってしまったのだ。数字を見れば、多分、この価値が分かるだろうと思っていたところがある。しかし、それは現実ではない。私が想定していたのは、数字を見ただけで、その背後の価値が分かる、かなり頭のいい人であり、一般的ではない。

ただ、説明するために必要な図版が、かなりの量に登るので、それをやるのが面倒臭いと思ってしまっただけなのだ。また、多岐にわたる留意点を説明しないと価値がわからないため、それを短く自然にわかりやすく説明するストーリーが必要だった。このストーリーを考えるのに若干、手間がかかるので、それを今までやらないでいた。表現する作業は中身以外の話なので、それほど価値がないと私は思ってしまった。しかし、社会的には意味が大きい。そのことを他人には、言っていたのに私は、それを作業量の多さから避けていた。つまり、怠け者なのである。

私が怠けた分だけ、人に伝わらず、その結果、解決策を見出しながらも、それが伝わらず、不可能という妄想が存在し続けることで、グローバルな搾取構造の中に組み込まれていく人々を見て、私は、怠け者ではいけないと思う。ただ、製作に時間がかかるので、現時点では、そういう分かりやすくしたものを提示できない。これから作るという話なのだ。恐らく、それが今必要なことだと、台湾のデモを見て思った。

彼等の必死に頑張る姿を見て、私は勇気をもらった。正直、私には自信がなかった。私の言っていることを信じてくれるかどうかを、だが、台湾の人々の必死さをみて確信した。あの人々を見て、心を動かされない人はいないと、そして、その流れはいずれ日本にもやってくると、そう思えば、何を信じる信じないというみみっちいことを自分は考えているのかと自然に思えた。