SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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曖昧な認識が矛盾した主張を野放しにする

曖昧さを好む姿勢は、問題の解決を困難にするので、やめて欲しいと感じる。というのは、曖昧な解釈を尊重すると、矛盾した主張を正当化してしまうからだ。

例えば
「自分は脱原発には賛成だけど、日本は核兵器を持つべきだと思う」

これは矛盾した主張である。なぜなら、この主張を曖昧さを廃して具体的に考えると、核兵器をつくるためには、ウランからプルトニウムを抽出する必要があるが、それは、原発から生成される核廃棄物を再処理して濃縮することによって作られる。つまり、核兵器をつくるのには原発が必要なのだ。

核兵器をつくるために必要な具体的な項目
 1.プルトニウムを生み出す原発が必要(プルトニウム生成プロセス)
 2.核廃棄物を再処理する工場が必要(プルトニウム分離プロセス)
 (大量の放射性トリチウムダダ漏れ:国土の狭い日本では危険)
 3.生成された核燃料を濃縮する工場が必要(プルトニウム濃縮プロセス)

また、プルトニウムは数年で劣化する為、核兵器を温存するためには、新しい核物質が常に必要である。よって、これらの工場を恒常的に保持していないと核兵器を保有し続けることは出来ない。つまり、脱原発に賛成だけど、核兵器を持つという論理は、完全に矛盾していることが分かる。

だが、こういう具体論で考えれば、非常に馬鹿げた理屈も、曖昧な認識であれば、矛盾しているとは認識されない。というか、そもそも、核兵器をどうやって作るか、よく分かっていないで曖昧に捉えているので、そうなる。では、外交的にプルトニウムを輸入すればいいということがあるが、そんな事は、どこの国も安全保証上やらないのは、当然であって、そこから考えると、技術的にも外交的にも具体的に考えれば完全に破綻した主張なのだが、まぁ曖昧に考えれば、そう言うアホなことが通ってしまう。

外交面で曖昧な事が通せても、技術的なことに関しては曖昧さは許されない。技術面のことは、物理的認識が欠けていると、完全に破綻する。矛盾は許されないのだ。現在、福島第一原発の問題は、この曖昧さが問題となっている。本来は、東電の責任を明確化し、できるだけ早く、国が大規模に対策を講じないとダメな規模になっているのに、責任論を曖昧にするため、処理全体を東電に任せ、結果として、汚染水ダダ漏れ、高濃度の放射性物質を含んだ湯気がモクモク出ている状態になっている。作業員の安全を確保するためにも、安全に作業できる防護服とか設備を国の総力を結集して用意するべきなのに、それを全くしていない。そういう馬鹿なことが通ってしまうのも、全て曖昧に問題を捉え放置しているからなのだ。

深刻な事態が深刻だとわからないのも、具体的に考えないせいだ。ある意味、曖昧さは無責任を助長するのだ。明確さや論理性は、責任の所在を明確にする。その結果、多くの人々は、責任をとりたくないので、曖昧さに逃げ込んできた。だが、3.11以後の危機に対して、そう言う曖昧さは許されない。

技術的、科学的な問題では矛盾は許されない。特に核のように非常にシビアなものは、そういう曖昧さは許されないのだ。私たち日本人は、もう曖昧さに逃げこむのはやめないといけない。そうしないと国が潰れる危機に現在直面している。私はこのブログでも、何が問題か具体的に論じることで、この曖昧さの沼地から、この国が抜け出せるように記事を書くつもりだ。

曖昧さは無責任を助長する傾向がある。だから、この国の無責任体質を排除するためには、その温床となっている曖昧さを排除する必要がある。特に科学的なことや技術的なことが絡む問題では、そうしないと完全に行き詰まるので、曖昧さは排除しないといけない。被曝の問題だって具体的に考えれば、危険性が無視できないのに、曖昧に捉えているから放置される。

今起きている日本の問題は、この曖昧さから生まれている。だから、この問題を解決するためには、皆が曖昧さを否定し、具体的に問題を認識し、きちんと考える事が必要なのだ。特に科学的な問題に関して、曖昧さは許されない。安全を保証する明確なデータがない状況では、予防原則に乗っ取って、適切に処理することが求められる。現在の人類の科学力では、核による被曝の影響を正確に把握することは極めて困難であるため、できるだけ放射性物質のリスクから人々を遠ざけなければいけない。十分なデータもないのに、安全だと言い張る方がカルトであり、危険な存在なのだ。そう言う存在を許すのも、危険の認識が曖昧であるからこそなのだ。