SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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反省は美徳「吾輩は、馬鹿である。故に反省する必要がある」

私が子供の頃、間違ったことを認めた時、「そうだ、よく反省した」義父は私を褒めた。今でも覚えている。間違うことが問題なのではない、その間違いを正さないことが問題なのだ。人は完全ではない、だから必ず過ちを犯す。問題は、それを正す姿勢があるかないかなのだ。

明らかに間違っていることを自分の自尊心で貫き通そうとするのは、駄目なのだ。逆に間違ってしまったと思ったら、それを潔く認め、修正しようとする姿勢は、賞賛に値する。己の自尊心よりも現実を認める。その姿勢こそが不完全な人間としての、ある意味ベストな姿勢なのだ。

人間の劣等感というのは、この自尊心を肥大化させる傾向がある。なぜなら、劣等意識が逆に根拠のない自尊心になってしまうからだ。

例にすると、「自分は賢い」と思いたがっている人がいる。この人は、自分の知能に劣等感を持っている。それ故に「自分は賢くなければいけない」即ち「自分は常に正しくなければいけない」という観念を持ってしまう。そうなると、人間は頭が硬くなってしまって、間違ったことをいつまでたっても修正できない、「本当に愚かな人」になってしまう。

自分が常に正しいのならば、その人は常に正しい判断が出来ているのだから、成功者でなければいけない。もし、その人が成功者でないのならば、恐らくそれは、どこかで間違っているからであって、その間違いに気づいていないだけである。つまり、基本的に人間はバカであり、そのバカであるという真理に気づいていないと、自分の愚かさに気づけない。物事は知れば知るほど、知らないことが増えていく、そういう事がわかってくると、人は自然に謙虚になるというものだ。その域に達していない人は、学んでないと見られるのがオチである

その人自身の知能にかかわらず、劣等感がその人の判断力を歪め、間違った帰結に導いてしまう事がある。現実を認識し、正しい判断をするためには、ありとあらゆるこだわりを捨てることが必要なのだ。こだわりが人の頭を硬くする。自分はこだわっていないという人がいるが、そう言う人は「こだわらない」事にこだわってしまっているのだ。

固定観念を持ってしまうと、ダメなのだ。人間、年をとると頭が硬くなるのは、この固定観念やプライドが高くなってしまうのだ。体も知能も若い人間に比べて衰えてきて、劣等感を持ち始めるけれども「若い奴には負けん」とやせ我慢をする。これがいい時と悪い時があって、間違ったことを延々と続けてしまうことがある。

私が、そう言う考え方をしたがらないのは、そういう事をした結果、ひどい結末を迎えた事例を知っているからである。だから、必要以上のプライドは持ちたがらない、酷い結末を知っているから、それは、単に問題が起きたというレベルではない、過ちを長期にわたって正さないことが非常に深刻な事態を招く。その事例を書くことは、あまりにもひどいので書くのがはばかられる。故にここでは書かない。

ただ、言えることは、病気に例えると分かる。病気の原因を何時まで経っても修正しなければ、最終的には人間は死ぬ、人間の判断でも、誤った判断を続ければ人が死ぬ。そういう事態を想定してほしい。つまり、自分のちっぽけな自尊心のために、人の命が失われることもあると考えれば、命と自分のちっぽけな自尊心どっちが大切なんだということになり、どちらを捨てるかは明白である。自分のちっぽけな自尊心などゴミ箱に捨てるのが正解である。

私の反省は、過ちを続ける事は、人の命に関わることもあるので、反省することは美徳、反省しないことは悪徳と判断する。そのためには、自分は「善人でなければいけない」とか、「賢くなければいけない」とか、そう言う発想は厳に慎まなければいけない。そう言う固定観念を切って捨てることこそ、美徳なのだ。固定観念こそ、反省を阻害する最大要因だ。これを否定するときにいつも思うのは、子供の頃反省した時、褒めてくれた義父だった。「よく反省した」と嬉しそうに褒めた義父を思い出す。

私が反省するときに必要だと思っている対話の仕方は、議論のルールに従うことである。まず、第一に、自分の主観で物事を考えない。主観は大敵だ。判断を歪める要因になる。その主観を排除する対話として、論理的に話す。相手の論理をきちんと聞いて、それに対して、なるべく具体的かつ論理的に対話し、飛躍や誇張を避ける。大抵、人は自分を正当化するときには、論理的でない、理由にもならない主張をし始めたり、レッテルを貼って人を貶めようとする。論理で対抗できないと見るや、個人を否定しにかかる。それを防止するためには、論理の飛躍、誇張を厳しく規制する。論点ずらしなどもっての外ということになる。それを指摘されたら、速やかに修正する姿勢が、人が反省するときに必要なことである。そういう厳しいルールを守って話をすると、自ずと等身大の現実が浮かび上がり、それについて、客観的かつ論理的な対話ができる。これは、議論の最低限のルールである。これが守れないと、飛躍や誇張によって議論が荒れる。そうなるともはや、それは言い争いであって議論ではなくなる。その結果、反省は出来ず、間違いが修正されず、最終的には人が死ぬ事にもなるような深刻な事態も招く。私が議論をするとき、いつも思うのは、常に、そういう十字架を背負って対話することである。

ただし、そういう厳しいルールを他人に課すとき、重要なのは温情を忘れてはいけない。厳しいルールほど、反発を招きやすい。なぜ、厳しいのか説明する姿勢も大事だ。