SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「表現の自由」は「大阪城」に似ている

私が表現規制について考えるとき、いつも念頭に置いているのは、治安維持法の歴史である。治安維持法がどのように成立し、どうやって民主主義を駆逐したのか、そのことを考えずして、表現規制は語れない。私は、その表現の自由大阪城に例える。

治安維持法は、その前段階の法律から徐々にステップアップして、民主主義を駆逐するまでになった。それは、まるで城のお堀を埋めるように市民の言論の自由を縛っていった。最初は、エロ・グロが規制された。その次にそれがステップアップして、そして、それが更にステップアップしてと、大体、民主主義を駆逐するまでに三段階を経て悪名高い治安維持法になったのである。この歴史からすれば、最も外側の堀ですらも、大阪城のように埋めさせてはいけないと分かる。

なぜ、権力者が表現の自由という天守閣を狙うのか、それは、市民の持つ権利、つまり、主権がそれによって担保されているからである。これについて、説明するには、表現の自由がNOという権利を担保しているからである。そして、民主主義社会では、それによって、政治家の権力に制限が加わる。だから、権力者にとって、それを市民から奪うことは、全権を掌握することに等しい。故に表現の自由とは常に権力者にとって奪われれる危険性があり、非常に重要なものなのだ。

私たちは、政治家が表現規制を言い出したら、まっさきに民主主義を死に至らしめた治安維持法を思い出し、いかなる表現規制もシャットアウトしなければ、いずれは、自分たちの権利を政治家に奪われてしまいかねないのである。また、政治家が誹謗中傷など、いかなる言い訳を言ってきても、耳を貸してはならない。現行法で適切に刑罰に問える事を意識し、彼等のウソには耳を傾けない賢い有権者となって、断固として拒絶してほしい。決して淀君のように妥協してはいけない。それは民主主義という天守閣の陥落を意味するのだから

ヒトラーに抵抗したドイツの牧師さんの演説(Wikipedia:マルティン・ニーメラー

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。— 『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』