SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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いじめカッコ悪い大いに結構

Twitterで、いじめカッコ悪いと言わないで、助けろという意見があった。この言葉が心に残っていた。そもそも、弱者を強者がいたぶるなど卑怯でカッコ悪いのだが、この言葉は、それを行動を伴えと言っていた。だが、私に言わせると、その周囲もまた私と同じ弱者なのだ。抵抗できずにいる弱者、そして、この意見では、弱者がカッコ悪いといっていた。たしかに力弱く惨めに負ける姿はカッコ悪い、しかしながら、これを逆説的に取ると、力の強いものはカッコよいともとれる。つまり、力が弱いものを一方的に蔑み、強いものを礼賛する言葉にも聞こえるのだ。

この言葉には、何がひっかかかっていたのかというと、品を問うコトバがないことだ。力の優劣、行動できるか否かで、物事を推し量る。しかし、それは、弱肉強食の論理であり、人間らしい品性の欠片も感じられない。とても原始的で、見窄らしい言葉に私は聞こえた。このような言葉が出てくるほど世の中が荒んでしまったのかと、目を覆うような言葉だった。

私は、抵抗できないのならば、せめて声だけでも上げて欲しいと思う。いじめは、カッコ悪いと、それすらもせず、ただ、行動しないからダメだと他人を非難するような人間を私は蔑む。なぜなら、そのようなことが出来る人間は、それほどいない。1%もいればいい方だ。自分に出来ないことを他人に要求して、その要求ができていないとダメだというのは、それこそないものねだりなのだ。

私は、まず声を上げ、その声が大きくなった時、そこから団結が生まれ、それが大きな力となって、弱者を救う。それこそが大事だと思う。だから、まず、声を上げよう。それが大事なのだ。弱者が弱者自体を救うには、まず皆で声を上げ、その団結が強者に打ち勝つのだ。だから、いじめカッコ悪い、大いに結構、それを皆で言おう。その声が大きくなることが、結果として弱者を救う。

私は声をバカにしない、独りでできることには限りがある。だが皆で声を上げ、皆ですることには、大きな可能性がある。だから、私は声を大事にする。声こそが弱者の武器なのだ。声で繋がった多数こそ、民主主義における弱者救済の方法なのだ。それ故、私は声を否定しない。叫びも否定しない、なぜなら、行動は、その叫びや声から生まれるものだから。叫びを否定し、声を否定する姿勢には、欺瞞的だと感じる。なぜなら、イジメられている私を傍観していた人間のしていたことは、「沈黙」であった。悪いことを悪いと言えない沈黙こそ、不正の温床なのだ。

沈黙が悪を育てる。だから、私は言う事をバカにしない、私は不正なことが行われているのに黙っている人間を否定する。最初は行動できなくてもいい、だが、声を上げよう。そうすれば、その声はこだまして皆の声になる。そうなったとき、社会は変わるのだ。最近の歴史を見れば、エジプトの民主化革命を見れば、Twitterで多くの声が響き、その声が皆の声となって、それが国を動かした。

だから、私は声だけでも「言うこと」は大切だと思う。その声が重なりあう事で力が生まれ、そこから変化が生じる。だから、声だけで行動しないからダメだなんて言うのならば、一人で世界を変えてみよと言いたい。無理だろ、一人で悪を倒してみよ、無理だろ、まず悪いことを悪いという声が必要ではないか。間違っていることを間違っているという「声」が大切なのだ。

私は声を否定する人間は、弱者の団結を阻害し、それ故に強者の横暴の擁護者である思う。だから、まず、いうことが大切、その後に行動すればいい、行動を伴わない言説は空虚だが、声すらも出さず、黙っている人間は更に空虚なのだ。そして、悪はその空虚さを食って肥え太る。投票率が低いのも同じ、声を出さない有権者は、悪に加担している。声を出そうともしない人間は、悪の擁護者であり、行動を伴わない空虚なる言説をする人間よりも、沈黙は、さらに空虚なのだ。