SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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合理性と社会性の両立の必要性

合理的正統性があれば、社会的正統性は特に重視する必要がないと思っている人間をTwitterで見た。自分の若い頃は、そう言う考え方だったが、私に言わせるとこの考え方では大成しない。なぜなら、人が独りでできることには限界があるから、だから、社会的に認められる必要がある。そのためには、合理性があるから社会性を無視して良いという甘えは通用しないと考えるべきである。

では、社会的正統性とは何か、人が正しいと思う立ち居振る舞いの事を言う。それは合理性とは別に存在する。この合理性と社会性を兼ね備えた時、チームプレイと合理性がシナジーを起こし、初めて結果が生まれる。

そういう考え方になったのは、天才の義父の人生を見ていたからだ。彼の人生は、その能力にそぐわず不遇なものだった。義父は、己の合理性を追求するために他人の自尊心を軽んじるところがあった。そこが義父の失敗だった。例え、義父が天才だとしても、1人で出来ることには限界がある。だから、彼の人生は限界だらけだった。その考え方を受け継いだ私もまた、大成はしていない。しかし、私は友人にアドバイスをして、そのアドバイスで、そいつが億単位の利益を得る中、自分は、そう言う有益なアドバイスが他人に出来るのに自分には、何が足りないのかと考えこむことになった。あまりに差が大きすぎたから、

そこで思ったのは、他人の力を使って大成する人間と、孤独な一人だけの自分の違いだった。友人の成功は、彼一人では成し遂げられなかった。複数の人間の助力があってこそ、成立するものだった。さらに思い出したのが孤独な義父の不遇な人生、合理性と社会性を両立しないと大成をしない...そのためには、他人が自分の合理性を認めないと非難するよりも、他人が自分の合理性に耳を傾けるよう自分の社会性を改善することが必要だった。

合理性と社会性は相反するものではない、別の方向性を持った価値観といえる。要するに合理性という1つのことから、2つのことに気をつければいいのである。人に威張るくらい立派な人間ならば、考えることがひとつ増えても、それに適応することは造作も無いであろう。また、それが出来る人間は、結果的に威張らなくても、自然に他人が敬意を示してくれる。だから、威張る必要がない。

私が賢いと思う人間は、状況に適応できる人間のことを言う。なぜなら、力の強かった恐竜は、氷河期という状況に適応できず、滅びた。しかし、それよりも遙かに力の弱いネズミは生き残り子孫を残した。私の基準では、ネズミは賢かったといえる。恐竜は愚かだった。

天才の義父は、合理性という側面では誰にも負けなかったが、だが、社会性が幅を利かせる日本という社会(氷河期)の中では、義父の傲慢な態度は絶滅危惧種と言えるものだった。つまり、義父はティラノサウルスだった。賢いというのは、どれだけ状況に適応できたかという事である。そのためには、状況を的確に把握し、それに応じて、適切な行動ができたものが賢いネズミというわけだ。だから、単に合理性を追求するだけでなく、社会性も十分に配慮して、きちんとした立ち居振る舞いをして、人と接し、その上で合理性を追求することが大成への道である。