SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

「みんな」という言葉にだまされない(テレビに洗脳されない考え方)

私は「みんな」という言葉をなるべく使わないようにしている。というのは、「みんなが〜している」という言葉は、行動の根拠を他人に転嫁して、自分自身には、十分な根拠を持っていないからだ。私は義父から「男ならば、自分の行動に根拠をもて」と教育されてきたので、物事に十分な根拠を持たないことを恥だと思ってきた。さらに義父は、男ならば「だって」という言葉を使うな「なぜなら」と言えと教育されてきた。だってという言葉は、だいたい他人や自分以外の別の要因に責任を転嫁する言葉である。だが、男ならば、そういう言葉を使わず、きちんと自分の中の根拠に基づいて行動しろと教育された。故に結果として「みんな」という他人に行動の根拠を転嫁する言葉を使わず「なぜなら」という自分の根拠に基づいて主張する習慣がついた。だから、テレビがいくら「みんな」とか「絆」とか言っても、全然、私には意味がなかった。なぜなら、それらの言葉にはまったく根拠がなく、むしろ、その逆の状況がある事をネットで把握していた私は、テレビに動かされることはなかった。

そういう意味で、私はテレビに洗脳されない考え方を教育されてきたといえる。しかしながら、洗脳はされないが、知識の不足で騙されることもあったし、NHKが嘘を言うとは想定していなかった。NHKチェルノブイリの実情について、過去によく報道していたから、今回も原発について正確な報道をするだろうと思っていたが、実際は違った。過去に良い報道をしていたから、今後も正確な報道をしているとは限らないことが原発事故の後、Twitterなどの別の情報ソースを握るまで把握できなかった。

私がテレビの行っていることが根拠がないと見破るときは、人が何かを隠すときには、歯が浮くような言葉が必要になってくるので、だいたい分かる。「絆」とか、そういう過剰な美談が必要になってくるのだ。とくに使われるのは「みんな(絆)」や「愛」という言葉、この種類の抽象的な美しい言葉が使われるとき、その裏では大抵、その逆の汚いことが行われているのが歴史で分かっている。最近のものはアメリカの「愛国法」その名のとおり、愛に溢れた法律かというと、実は逆で言論統制を可能とする法律である。実際、今のアメリカでは愛国法によってテロ容疑者だと疑われただけで、裁判所の礼状もなしに家宅捜索がされ、有無をいわさず逮捕されるという人権侵害も甚だしい行為が公然と行われている。これが愛国なのだという。この言葉は間違っている。実情は、アメリカのスピリッツ、「自由」を売り渡した売国法というのが妥当である。国の根幹の哲学を売り渡した時、アメリカという国の根幹が揺らぎ始める。その結果、他人の国の自由にまで口を出し、TPPやACTAなど、国際条約という形をとって、他人の国の自由な言論や主権に口をだすような国にアメリカは成り下がった。哲学を失うことはかくも大きな結果をもたらすのである。その社会の根幹を支える哲学がなくなってしまった社会は、目先の利益に走るようになる。これは現在の日本も同じである。日本の場合、国民の利益にすらならないことに政治家が邁進している。

しかしながら、私は悲観していない。なぜならば、多くの人々が原発にNoといい。この間の民主党の新宿の街頭演説では野田が罵声の合唱を浴びせられ、9月25日の自民党の新宿の街頭演説では、罵声はなかったものの、その殆どが動員とみられる旗や同じ服装をした人ばかりで殆どの人はスルーしていた。つまり、民主党には人々は強い反感、自民党は無視されていた。このことからわかるのは次の選挙、これらの政党は大敗するということである。そして、橋下の維新の会にしても、あれだけヨイショ報道されているのに支持率は3%どまり、民主、自民、維新などは、マスメディアにかなりヨイショされているのに支持率が全然上がらない。つまり、人々は、ウソに気づいている。そして、それがそれ以上の支持につながらない。ダマされる人が増えないのだ。これは、近年になかったことである。大抵、マスコミが支持する政党の支持率が上がるのだが、今回は違う。恐らく日本のマスコミは度重なる御用報道によってオオカミ少年になってしまったのだ。だから、人々に信頼されなくなっている。それが、次の選挙に現れるだろう。