SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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孤独でいいと思うことが粗暴さに結びついていた

人の気持ちを察して話すということが最近出来ていない。どうしたことなのかと後になって考えこむことがある。そういうことをするのは、自分の考えを貫くという、ある種の完璧主義だが、それが結果として、良くない結果を招くということはわかりきっているのに、それを敢えて言う自分は、何を考えているのかと思った。そのような粗暴な対応をする自分の根底に何があるのかと考えてみたところ「自分は孤独で良い」と思っているところがあるのではないかと、ふと思った。その結果として、他人の心を顧みない言動につながっている。だが、原発問題1つとっても、できるだけ多くの仲間を必要とし、できるだけ多くの人間との結束が必要なときに、この発想はそれと逆行している。私は「孤独でいい」のではなく「仲間が必要だ」と思わなくてはいけない。少なくともこの大きな問題に立ち向かうときに、そのような独り善がりは許されない。私は自分の浅はかさを恥じた。

自分の個人的な主義主張など、現在、生じている大きな問題に比べれば、あまりにも矮小、まったくもってくだらないケシ粒のようなものである。そのケシ粒を後生大事にしている自分は全くの所、大局を見失っている。大局と小局の区別もつかないとは、義父が聞いたら「仲間が必要な時に一人になろうとするなんて、バカじゃねぇのかオメェは」と言われたことだろう。孤独で良いと思ったのは、意地でも「皆」というものを否定してやると子供のように意地を張っている。とてもガキだ。発想が全くもってガキだ。状況に応じて自分の言動を切り替えるのは、決して、嘘つきという事ではない。むしろ適切なことだ。それは、食事と同じだ。塩味が好きな人には、塩を多めにし、脂身の好きな人は、ボリューム感を足す。それは、個人の尊重であって個の否定ではない。むしろ、自分の考えをあまりにも前面に出し、人の考えと無闇矢鱈と衝突し、人の気分を損ねるのは、賢明とは言わない。それは馬鹿正直という。正確に言うと愚か者。問題はその愚かさ故に自分が苦しむだけならばよいが、その愚かさが他者との調和を乱し、力を結集できない事態は、避けなければいけない。孤独でいいというワガママは、もはやこの状況では通用しないのだと思った。

山のような悪政を目の前にして自分の行いを改心せざるおえないと思うのは、道ですれ違う小さな子供を見ていて、この子達の未来が、野田の悪政によって酷いことになる。そう思ったら、本当に自分の独り善がりなんて実に馬鹿げていて、何の意味もないと思うのだ。

ただし、自分を失えという事ではない、自分を失ったものは、信用されない。ただ、他人に対して丁寧に接するためには、孤独でいいと思うよりも、仲間が必要だと思ったほうがいいからだ。