SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

過ちを否定するのではなく、正しさに辿り着く支援をする

最近、思うのは自分の欠点について考えている。社会的視野の欠落、問題の解決のみに意識を集中し、それ以外について我関せずという姿勢が、結果的に失敗を招いてきた。相手がいかに間違っていようとも、その社会的な力量を無視して、返り討ちにあい傷ついてきた自分を振り返って思うのは、私は全然子供だということだ。子供のように思い、子供のように考え、そして、それ故に負ける。

本当に問題を解決するためには、全体を見なければならない、しかし、私はその全体を見ることを怠った。なぜなら、それは間違っているものは否定しないと正しくならないと考えていたからだ。とてもシンプルな発想である。とても子供じみている。しかし、私は1つ思い違いをしていた。つまり、正しさに固執する自分自身の中にも同時に過ちがあったのだと、つまり、己の過ちに気づき、否定する事ができなければ、真に正しくはならなかったのだ。そういう意味では、私の目は、自分以外の外に目が行き過ぎていた。

人には意思がある。この意志の存在を正しさの名の元に無視された者は、反感を抱く、その反感を私は、自らの心を律することの出来ない愚か者としか見ていなかった。私は、子供の頃、天才の義父の繰りだす正しさの重圧に耐えてきた。そう真の正しさというのは、重力があるのだ。この重力に耐えること、それが出来てこそ、正しいことが行える。己を切り捨て、正しさを追求するべきだと、そうしなければ、己のことばかり考えることで、何ら正しい方向に向かわないと、だから、己の自尊心を満足させるレベルの次元の意見、己の論理を成立させるだけで、何ら社会に貢献するレベルに達しない意見、そういうものは無視してきた。こじつけにすぎない東大話法などは、天才を見てきた私にはクズにしか見えない。クズはゴミであり、捨てるのが正しい。そう思ってきた。

実際、クズでしかない全く意味のない意見には己が色濃く現れている。しかし、人というのは己が尊重されてこそ、輝くものなのだ。それは私が祖母の抑圧に苦しめられて分かっていたはずのこと、その私がその反対のことをしていたと思うと、間違っていたと感じる。しかし、だからといって過ちを尊重するべきではない、明らかに自己満足の次元のレベルの意見は存在する。だがしかし、私が子供に諭すときに子どもの心を傷つけないように自然にしていたこと、それは、子供が間違っていたとしても、それを責めず、どうあるべきか伝えることで、正しさを追求する姿勢。なぜ、そう言う姿勢が大事なのかというと、子供が過ちを犯すのは未熟さ故の必然だからだ。しかし、それは子供だけではなく人間そのものが過ちを犯すという事実を直視すれば、それは何をもって諭すか分かる。その答えにたどり着くように支援することであって、間違いを否定することではないのだ。

答えを磨くためにダメなものを切り捨てるのは当たり前だが、しかし、人間を切り捨てていいということではない。人を大切にしない正しさは冷たい。そして、その冷たさは私を苦しめたもの、だから、私がそう言う事をしてはいけない。

この中で私は、過ちを否定するよりも、正しさに向かうことが出来る様に支援するべきだと書いたが、悪意は否定していいと思う。なぜかというと、悪意は己が間違っているという自覚のもとで、私欲に走っているのだから、そこに真実に向かう支援をしたとて無意味なのだ。彼らは真実を知った上で、過ちを犯すのだから、そういう意味で社会には刑罰があり、その罰という必要悪によって仕方なく、秩序を保っている。それが社会というものだと思う。何をもって正しいとするか、それは他者を見ることによって分かる事、科学などの客観的な視点で分かる事があるが、過ちを犯す者は、まず、他人を切り捨てて自分を成り立たせようとし、そのために極めて主観的な主張をするので分かる。その主観の延長線上に、客観と主観の溝を埋める「偽り」が必要になる。そういう己を捨てられないところに彼らの過ちがある。しばしば、人は権力を持つと、この偽りを通しやすくなるので、権力と欲が結びつくと、悪(主観を正当化するための偽証)になってしまうのだ。
 
私は親父に「一度でも嘘を言ってしまうと、その嘘がバレるかバレないかで安心できない毎日を送ることになる。そんなことをするより嘘を言わないほうがいいじゃないか。その方が胸を張って生きられる」つまり、正しさを常に追求していく中に、人間として尊厳があると教わった。これと同じ事を映画では、カナディアン・エクスプレスのワンシーンにある。殺人事件の目撃者を証言台に立たせるため、顔の知られていない目撃者を列車という逃げ場のない空間で匿う検事補が殺し屋と列車の食堂車のテーブルの前で「目撃者を渡せば、一生、贅沢な暮らしができるぞ」と言われた時に検事補は「正しいことをしていれば、いい空気が吸える」と言ったのを思い出す。その後、見事、検事補は、目撃者を証言台に立たせ、誰が殺人を犯したか証言すると、悪党が首のあたりを息苦しそうに掴むところは印象的でした。私もいい空気を吸いたいので、正しくありたいと思うのです。

カナディアン・エクスプレス(1990)
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内容的には佳作といった所。自分は好き。