SKY NOTE

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寛容さの欠けた平和は独裁になる

争うなという言葉には、独裁の響きがある。

人は違っているから、争って当たり前、人が互いに違っていても、互いの違いを認め合い、許容しあっていれば、争うことはない。これは理想形、でも、現実の人間って心、そんなに広くない。だから争うんだよね。そういう心の狭い人間同士で争わないということになると、お互いが妥協できる中道に行き着く、これは良いように見えて、実は、全体を最大公約数的な1つ答えに強制的に合わせているって事。それは単なる独裁にすぎない。(それが建前や奇麗事になる)

大事なのは、争うことすらも許容する懐の広さを持つことなのだ。互いの違いが存在することを許容するならば、多少は、争って当たり前で、その争いの中から真剣にぶつかって、互いの違いを認識し、その上で、互いが理解し合えるようになればいい。ぶつかるってことは、その分、洗練されることなんだ。それはまるで、互いの角がぶつかり合って、最終的に丸くなる河原の石のように。そういう真剣な衝突から生まれた丸さこそ、真の協調である。争いの痛みの分からぬ者の見せかけの平和など、形のみで中身が無い。真剣なぶつかり合いの中で生まれたものの方が遥かに洗練される。

互いを理解するのに多少の争いは必要。それなしに、独裁によってことを収めるのは、基本的に違いを理解することを妨げるばかりか、ほんとうの意味での協調も恐らく成し得ない。人は、互いを許容するほど度量が広い人間同士ではないのだから、多少ぶつかるのも道理、だから、なにもかも争うなと言い出したら、その人は独裁的な人間だと見たほうがいいだろう。なぜなら、それを現実的にやろうとすると独裁するしかないから。

「争うな」と言う前に「話し合え」というのならば分かるが、最初に争うなと言い出し、人を黙らせる人は注意した方がいいかもしれない。互いに話し合わなければいけないものを、強制的にだまらせるのはダメ。理解が進まず、結果的に何も解決されない。協調ではなく、独裁で問題を解決した気になっている人は、独裁者予備軍。警戒した方がいいだろう。

よって、寛容さの欠けた平和は、「争うな」という大義のもとに皆に沈黙を要求する。その結果、表面的には平和が実現されるが、それは、互いの無知を放置したままの偽りの平和。常に争いの種がくすぶっている状態、本質的には平和ではない。むしろ、見えない争いが長期化する。ある種のごまかしに過ぎない。自己欺瞞である。

未熟な人間同士、争いもまた必要と割り切れば、結果的に言いたいことが言え、その結果として、自由な主張が認められる。ただし、その自由には虚偽を許すというわけではない。あくまでも互いを理解するために必要なプロセスを踏むのが目的なので、それを妨げる偽りは許容しない。そういう意味では、公平さが要求される。互いの真実のぶつかり合いを許容するという意味で争いを許容する。それが寛大なる平和。少なくともこの場合、沈黙は許されず、本音のぶつかり合いの中で、最終的な結果を得ようとする中に真の平和がある。コレが民主制の基本である。

日本に民主主義が根づかないのは、建前という虚偽によって、この本音(自由)とフェアプレイ(公平)の精神が根付いていないからである。

東大話法などは自己欺瞞とアンフェアの権化であり、それが尊重されるのは、日本に自由とフェアネスがないからである。海外で東大話法が通じないのは、フェアネスが要求する論理的整合性を東大話法が持っていないからである。だから、海外に行くと、彼らは全然相手にされない。きちんと説明できないから否定されるのである。(フェアネスに基づいて否定される)

Wikipedia:東大話法